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アイロンと長谷川一夫

【9月23日】お彼岸
きょうの作業:ほったらかしだった絽と単衣のアイロンかけ。
きょうの成果:やはり「なんの特徴もないアイロン」は良い。
       (ナショナル自動アイロンNI-A55)
       アイロン掛けがうまくなったのではないかと錯覚するほどだ。
       ただし、これまでコードレスを使っていたため、
       コードの扱いに少々困る。
       ちょっと前まで当たり前だったことなのに。
※昨日カイロプラティックで念入りにグキグキいわしてもらって、少々ふらふらがましになる、が、依然揺れている。先生曰く「過労」。一日ゆっくりしろといわれるが、マンションの防火設備点検日で、何時に作業員が来るかわからない。寝ころぶわけにも出かけるわけにも行かない、宙ぶらりん状態。何か作業をしようにも、物を広げると作業に差し障りがあるのでそれもできず、無為に落ち着かない時間が過ぎていく。
※ようやく点検が終わったので、アイロンかけに着手。
※暑さ寒さも彼岸まで、というが、うちはやっぱりまだ暑かったなー。

きのうの読書:「二枚目の疵 長谷川一夫の春夏秋冬」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163661808/qid%3D1095948009/249-7212013-4099563
※これまで長谷川一夫が、林長二郎から名前を変えたこと、顔を切られたことだけは知っていたが、特に興味を持ったこともなかった。
 しかしここのところ京都テレビで1950年代の邦画を見るようになると、親しみが涌いてきて、読んでみる気になった。
 長谷川一夫の生まれは宇治市のあたりで、幼少期の遊び場は伏見・大手筋にあった芝居小屋だったそうだ。どちらも友人にゆかりのある土地である。さらに、ホントかどうかは不明だが、奥さんが入院した病院は西区の大野病院、現「大野記念病院」、これまた知り合いから耳にしたことのある名前だ。
 当時の歌舞伎座は、今の「ビックカメラ」のところで、つまりは私がアイロンを買った場所だ。長谷川一夫と私にはなんの接点もないと思っていたが、ビミョーにかすっていた。
 そして、その後、宝塚歌劇「ベルサイユのばら」の演出で、私もその名を目にすることになる。だが、なぜ長谷川一夫なんだろう、という印象しかなかった。女形出身の彼は「いかに女性をきれいに見せるか」のエキスパートで、抱き合うときにも「あり得ない背骨の曲げ方」をどんなに苦しくても役者に強いる、しかしそれこそが舞台で最も美しく見えるという事を熟知していたのだった。
 長谷川一夫のライフワークとなった「東宝歌舞伎」での『紙屋冶兵衛』はすばらしかったそうだ。見ることができなかったのは非常に残念だが、その時代の私の年齢では、歌舞伎になんて全く興味がなかったし、見たところですばらしさが理解できなかったと思う。すごい芸と同時代に生き、見る目や感受性を持ち、見る機会を持つことができる偶然に恵まれた者のみの恩恵なのかもしれない。
 長谷川一夫に限らず、それぞれの人間がたまたま目にしたり体験できることは、あれこれあって、その偶然をしっかり受け止めておくべきなんだなと思う。後にならないとそのありがたさって、わからないのだろうけれど。
 あと、特筆すべきは、「松竹」はある時期まで「マツタケ」と呼ばれていたこと、長谷川一夫の人生の流転には阪急電車の小林一三や吉本興業も絡んでいたこと。都市化・企業の成立という経済発展が、林長二郎を林長二郎のままではいさせてくれなかった、といえるかもしれない。
タグ:資料 映画

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