SSブログ

元大関・貴ノ浪さんのコメントより~言葉の問題

【3月27日】春場所 千秋楽
※ここんとこ、朝青龍の優勝ばっかりで(栃東は偉かったが)、今ひとつ下剋上がなく盛り上がりがないように思える。
※今場所、引退後初めて解説者として元大関・貴ノ浪(現在の親方名忘れた)が登場し、すごく参考になる一言を言ってくれた。
※いわく「相撲はバランスを崩し合うゲームですから。」なるほど。相手がいかに大きくとも、バランスを崩せさえすれば倒れるのだ。それゆえ、下半身を鍛え、バランスを保てる力をつけるのだな。シューティングやレスリングとは違うところだ。
※大相撲の解説は、現役時代を知っているお相撲さんが出てくるようになってから、参考になることが多い、というか、使う言葉が世代的に共通のため、理解できるようになったというか。
※内掛けをマスターできたのは舞の海さんの説明がわかりやすかったためであるし、今回の貴ノ浪の一言も私にヒントをくれたのだった。
※要はバランス、なのである。バランスが崩れたら、負けなのだ。・・・衣類の組合せを念頭に置いて繰り返している。けったいな格好になるのは「バランスが悪い」からなのだ。着物の場合は、着物と帯の色柄が拮抗しているよりも強弱がついていた方がバランスがいいだろうな。しかし髪型は、着物に合わせた方がいいだろうな。などなど、全部同じ強度・トーンでまとめてもバランスがいい、ということにはならないところが、着物の面白さでもあろうか。
※帯・髪型以外にも、着る人とのバランスもある。床置きでバッチリでも、私が着るとバランスが悪い組合せもあるだろう。「無地系紬と抽象柄紬帯」とか。

※調和、バランス、このあたりが着こなしのキーワードになるのだろうが、先日の「豆千代ア・ラ・モード」のとんでもない組合せは、モデルはガイジン・着ている物は総天然色・髪型は怒髪天をつく、舞台装置も装飾過剰という有様で「すべてが過剰」。そういう意味ではバランスが取れているのである。というより、一つ過剰にすると、全部過剰にしないとバランスが悪いので、自然とそうなるだろう。結果、道を歩けない格好が提示された。あのフレームの中ではバランスが取れているが、街路に置いたら周囲とのバランスが悪いというわけだ。現実には、そのあたりを配慮しながら着るものを決めていくわけだが、それを配慮しないでいいのはお人形ごっこの場合だけだろう。
※日常の衣類はお人形ごっこでない。町や人や親戚縁者や自分自身や季節や場面や、その他諸々のことのバランスを考慮しながら、決めていくものだから、それだけに面倒くさいが面白いのだろうと思う。



きょうの読書:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896918983/qid%3D1111933531/250-9488409-3717051自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」
※2001年4月、浅草で起こった殺人事件の裁判を、3年以上追ったルポルタージュ。著者は障害者の施設で勤務した経験があり、最初は容疑者が障害者であるにもかかわらず、その点を考慮されずに裁かれようとしているのではないかというところから取材を始めている。しかし、取り戻しようのない喪失感に満たされた被害者遺族にとっては、加害者が障害者であろうとなかろうと、なんら意味をなさない、救いにもならない、そのやるせなさに引き裂かれつつも、試行錯誤の末書き上げた力作である。
※この本を読んで浮かび上がってきたキーワードは「言葉」であった。被告はある面で社会に適応しつつも、ある面では適応していない。特に「自分を語るための適切な言葉」が出ないのだ。単に内向的、無口な性格であり、罪を償う責任能力はあるというのが検察の主張で、裁判所の判断もそれを受け入れて無期懲役となった。
※しかし本書を読み進むうちに、法廷で語られた「被告についての言葉」のほとんどは、彼自身が語ったものではなく、彼について他者が語ったものを、彼が否定しなかったものであったというように思える。彼は否定するにはするが、では本当はどうなのか、と問われたときに、彼自身の言葉で説明することができない。それによって、周囲が作り上げたストーリーに彼自身が巻き込まれ、また、それを強く否定することもできないでいるうちに判決が下った。言葉を持たないことによる悲劇でもある。
※一方、被害者遺族の方は「言葉を失って」しまう。著者の取材中にも「語ることによって被害者女性がもういない、ということを再認識せねばならない現実」に向かい合えずに、被害者について語る言葉を発することを避けようとしてしまう。
※被害者の両親は、加害者を憎む以前に、娘がもういないという現実を受け入れられずに苦しんでいる。叔父・叔母・祖父母は被害者女性を失った悲しみと、加害者に障害があった可能性が高いという現実を合わせ考え、なんとか絞り出せた言葉は「あの子は地雷を踏んでしまったのだ」というものだった。

※この本は、障害者であるがゆえに犯罪を犯しても罰するべきではないというのではない。また、被害者遺族の側に立って、何が何でも断罪せよ、というのでもない。ただ、地雷が埋められている状態にしないために何ができるか、ということを考えるべきではないか、ということだと思う。
※事件が起こってしまったその瞬間、男は、ほんのちょっとのボタンの掛け違いで加害者となってしまった。また、被害者もたまたま通りすがっただけで、何ら咎められる点はない。その瞬間から遡って、ボタンをかけ直す方法はなかったか、と探っているのである。それが被害者が大切な命を失い、遺族が悲しみに陥れられたことに対する、せめてもの報いなのではないかというのだ。
※事件の当日まで、加害者は孤独だった。本人がそれを望んだせいでもあったが、孤独を好むに至る半生は、家族環境・経済状況など、あらゆる面から作り出された点も否定できない。また、本人は障害を持っていることを否定している。それだけに、裁判所の判断は一見妥当にも思われるが、客観的に見てそれには疑問を持たざるを得ない。警察の取り調べも裁判も「言葉」を用いて行われるが、彼は自身の言葉を持たないのであるから、そもそも裁判自体が成立しえないはずなのだ。ただ、「これこれこういうことですか」と問われれば「そういう感じです」ということは答えられるし、他者が発した言葉をそのまま繰り返すこともできたがために、言葉を持つものとして裁かれた。遺族が絞り出した「地雷」という単語は、加害者を「殺人者」という人格を持ったものとはいえない点を含み、物を言わず潜んでいる凶器としてのとらえ方をする以外に、自分を納得させることができなかったのだろう。それを考慮すると、地雷を刑務所に入れようが絞首刑にしようが、罪を贖うということには思えないだろう。本書のいいたいことは、一人の人間が「地雷」になってしまうことを食い止める方策を、我々は考えていくべきではないのか、ということだと思う。


※現在、至る所で(特にネット上で)「自分を語る言葉」はあふれているが、その中には「何を言っているのか理解不能」なものやつじつまの合わないものもある。書くことは、記す、記録に残すということであるから、あとで読み返して意味が通らないことを書いている自分自身に気がついたり、今では思いつかないような、すごいこと書いてるじゃん!というような発見もあったりすると思う。自分で自身の言葉を吟味することを怠り、誰かの言葉を口移しで書いたり話したりはしていないか、誰かを傷つけてはいないか、客観性は損なわれていないか、書く人間はもっと慎重にならなければならないように思う。
※独りよがりな言葉を発し続けたり、誰かの口まねをしているうちに、私だって自分の城に閉じこもり、いつしか地雷になってしまう可能性がある。

※今思い出したのだが、こんな話↑になったのは、昨日の朝日新聞「声」の欄の投書を読んだせいだった。
※中学生の娘を持つ母親からの投書で、要約すると、
「中学生の娘が以前お世話になった先生が亡くなり、お別れ会に参列して、帰ってきて『ほかのみんなはお香典を持ってきていたのに私だけ持って行っていなくて恥をかいた』という。収入のない中学生がお香典を持って行けないのは当然だ、未成年が多く訪れる教師の葬式には一般と異なるから、先生の死を伝える時点で学校側に葬式についての配慮の一言があったらと思う。」というものだった。
※これを読んだあと、私はなんかすごく変な気持ちになったのだった。おいおい考えていくうちに、
1,中学生の娘は未成年で、親の保護対象であり、親は責任者である。
2,子供がお世話になった先生というのは、親もお世話になった人ではないのか、
3,お別れ会というのはお葬式の別名なのだし、本当にお世話になったと思うのなら、ご遺族にその気持ちを伝える一つの方法として、お香典を持っていくのは当然だろう、あるいはあらかじめ同級生のお母さんに尋ねてみれば済むことだ。配慮がなかったのは自分ではないのか。
4,自分の娘にお香典を持たせかったのが、なにか信念があってのことなのであれば、それを娘に説明すればいいだろう、投書する必要があるのか、
5,自分以外の人が当然と思って行うことに異議を唱えたいのだろうか?



6,実は投書の主は、非常識な行いをした自分を認めたくないだけなのではないだろうか。
7,ごめんね、お母さん非常識で、と娘に謝ったら済む話ではないのか。
8,どうも「お別れ会」を、学校行事の「遠足」「運動会」と同様にとらえ、「えー、お弁当いるなんて聞いてなかった」的な反応のように思える。それゆえ、学校からの配慮、説明を求めているようだ。

※今の言葉で一言でいえば「逆ギレ」の一種とでもいうのだろうか。ま、いったん逆ギレたとしても(私も良くある)、投書の原稿を書いてから読み返して、疑問持たなかった点がコワイのである。投書をするほどに言葉を用いることができても、誰にもたしなめられず、反対意見も聞き入れない状態が極端に進むと、いつしか「地雷」になってしまうのではなかろうか。

※また話はワープするが、この本はふらりと入った近所の本屋でたまたま手に取ったもの。ネットで本を買うのは早くて便利だが、背表紙を見て出会う喜び、というのはリアル本屋ならではのことだ。想定外のジャンルの本が、すごく面白い可能性、意外な方向に扉が開いている空間としての本屋を、私は愛する。
タグ:相撲
ココナツサブレ緑犬 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。