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ながもち

9月8日
きょうの荒磯:そごうの羽織

※昨日、心斎橋のそごうが再開店してものすごい行列だったそうだ。私も行きたいのだが人混みが一段落してからでないと、とても近寄る気になれない。顧客層をやや高い年代に設定して、心斎橋モダニズム復活を感じさせるコンセプトが嬉しい。ここのところ、どこも若年層にターゲットを絞る傾向にあり、特に心斎橋筋は「マツキヨ」と「コクミン」が向かい合って客引きコール合戦をした時点で、もう心斎橋ではなくなってしまっていたと思う。さらに三越もなくなってしまうと、年をとった人が行くところがなくなってしまった感があった。

※しかし、今回の再開コンセプトとビジュアルイメージの乖離が変なのだ。「なにわ遊覧百貨店」と題したポスターにおかしな恰好の宮沢りえが微笑んでいる。昭和初期のモダニズムを思い起こせば、こういうイメージにはならんだろう。大阪人が作ったとは思えない。本当に残念だ。

※そごうの再開を喜ぶ気持ちは、ごく個人的な動機による。私が着ている羽織(もと母の小紋)は、そごうのおかげで現役活躍中なのである。戦災でほとんど焼けてしまった中で残った、数少ない物だ。昭和19年、そごうの地下で個人の家財を預かるサービスをしてくれいていて、箪笥ごとお預かりします、という申し出だったのだが、うちの箪笥は裏をネズミに囓られていて、ええかっこしいの祖母はそれがかっこわるくて、行李やそのほかの入れ物に適当な物をつっこんで預けたらしい(焼けるはずがない、という根拠のない確信があったらしく、そごうに預けたのは保険のようなつもり)。というわけでメインの箪笥の中身は見事に失われたのだが、適当につっこんだ中に羽二重の白絹が入っていて、それを戦後になってから、そごうで染めてもらったらしい。


そごうの歴史によると昭和27(1952)年にようやく進駐軍の接収から解放されたということなので、染めたのはそれ以降ということになる。母の記憶では室内の照明が暗かったせいか、見本帳で見たものと、染め上がったものの印象が全然違って仰天したらしい(こんなはずでは・・・・)。また、白生地をなぜわざわざ濃い色に染めたのか、あとになって我ながらさっぱりわからない、と言っていた。ようやくそごう再開し、着物を染めて誂える、という戦前のような消費行動ができるようになって、かなり舞い上がっていたのではないだろうか。

※青に黒と水色の波、赤い鯉の荒磯紋のこの着物は、母のお茶のお稽古で活躍したらしく、私の手元に来た時点ではお尻の下が擦れて、染めが抜け始めていた。また、男物着尺を用いたのか、生地幅はあるのに長さがなく、繰り越しの縫い込みすらなかった。これを昨年、羽織に仕立て替え、第二の人生を歩んでもらうこととなったのだが、擦れた部分以外は約50年の時を経ても染めはしっかりしているし、生地も充分強い。あと50年いけそうだ(擦れた部分は羽織の衿下に隠れているのだろう)。そごうの地下で預かってくれなかったら、この羽織を私は着ることがなかった。これが大丸の上の階で預かってくれたのでも、燃えてしまっていた。全館無事だったそごうだったおかげである。そういう縁もあって、このたびの心斎橋そごうの再開を嬉しく思う。

きょうのそっくりさん:荷造りしていたら

※まあ、どうでもいいことなんですけど。
タグ:百貨店 戦争

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