SSブログ

ニャロメの帯と坂田三吉

【10月26日】
※くしゃみが出て、咳が出て、寒く感じて、頭が痛くなって。頭痛薬を飲んだら眠くなって。

きょうの夢:袋帯。

●夢
 よく行く古着屋がリニューアルオープンしている。ウィンドウに飾られている袋帯が「手塚治虫」と「赤塚不二夫」。これは新品だ。値段札を見ると定価56000円を41000円。ううううう、無理すれば買えない金額ではないが、二本とも欲しい、どうしよう、と悩んでいる。地色も色違いが何色かある。特に赤塚不二夫の帯には「ニャロメ」と「アッコちゃん」が織り出されていて、ココロひかれる。しかしお茶の水博士も捨てがたい・・・と唸っている。2本で82000円、これは無理だぁ、うーむ、というところで電話が鳴って目が覚める。

※その後熱を測ってみたら37度ちょうどだったので、風邪のひきはなだったらしい。熱のせいで変な夢を見たのかもしれないが、でもドキドキするような楽しい夢だったので、目覚めたのが残念だった。他の色のも見てみたかったなあ。しかしなんと価格が具体的なんだろう。しかも、私が出せないこともないような、微妙な金額に設定されているのが不思議だ。

きょうの読書:「9四歩の謎―孤高の棋士・坂田三吉伝

※「王将銘仙」を着て、将棋の駒の鼻緒の下駄を履くために、やはり坂田三吉のことをちゃんと知っておかねばと考え、買っておいた本に手を伸ばす。熱があるかないか状態で、本を読む以外なんにもしたくなかったせいでもある。

※参ったなー。出てくる地名やものが、なんか馴染みがあるというか、心当たりがあるのが多く、長谷川一夫の本 を読んだときのように、「微妙にかすっている」のだった。まず坂田は下駄の「畳表」を作る仕事に就くが、将棋が大好きすぎて長続きせず「日本橋の草履屋」へ職人奉公へ。黒門市場の閉店後に大人たちが賭将棋をするのを眺めていたらしい。明治16年頃、坂田がいた場所を、私は知らず知らず通っていたのだ。

※坂田は学校嫌いで、書けた字は「三」「吉」「馬」だけだったらしいが、高段者になると弟子に認定証を書いて与えなければならない。その代筆をしていた書道家が、うちから歩いていける所に、この本の取材当時、住んでいらっしゃたらしい。ちなみに、戸籍上では「阪田」なのだが通称「坂田」となっているのは、その書道家がよく確認せずに書いたものが始まりになっているそうだ。

※新国劇や映画では、坂田は将棋バカ一代として描かれ、非常識だが将棋だけはめっぽう強い風な印象で、その影響は「ドカベン」に登場する「通天閣高校の坂田三吉」選手にも反映されているが、この本によると壮年期にはやや哲学的な、神秘性すら感じられる人に変貌していたそうだ。また身なりにも気遣う人で、決して「長襦袢に羽織を羽織って、扇子を腰紐に差す」ようなことはなかったという。

※タイトルになっている「9四歩」というのは、不遇の時期を経たあとの16年ぶりの対戦で最初に指した手、一般にこんな手はまず指さないという型破りな、将棋をそこそこ知っている人なら首をかしげるような手で、著者は冒頭で「なぜこんな手を指したのか?」という疑問を現役棋士に投げかけているが、誰一人として明快な回答はできなかった。「月下の棋士」という漫画を描いた能条純一氏だけが「坂田は将棋盤をカンバスに見立てて創作活動をしていたのではないか」と指摘している。それを受けて、坂田は老齢期には「勝負師」ではなく「アーティスト」の域に達していたのではないか、というのが本書での結論だった。

※ただ、新国劇で描かれる坂田三吉像は、当時の日本人の心の支えになる役目があった。また本人もインタビューなどでそのネタになるようなコメントを出したりして、虚構の美を作り上げる手伝いに参加した部分もある。しかしその像があまりに強烈に浸透したために、本人の真の姿はほとんど知られることがなかったのだった。

※そして読後、私が「ああそうだったのか」と得心したのは、「あしたのジョー」は「坂田三吉」だったのだ、ということ。たしか「梶原一騎伝 夕やけを見ていた男」に書かれていたような気もするのだが、坂田の終生のライバル「関根金次郎」が力石徹、と読み込んでいけば、梶原一騎が二人の戦いを「あしたのジョー」の基本構成に活かしたことがよくわかる。実際の関根金次郎は、急逝しなかったが。

※さて、この本を読んだあと、私は王将銘仙をどういう気持ちで着ることになるのだろうか。晩年の坂田は身のこなしが美しく、身なりも整い、爪も磨いて油をすり込んでいたそうだ。やはり、それを見習って、せめて小綺麗に着るようにしよう。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。