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陶器のような

2月11日

※写真倉庫、更新しました。


※目覚めると町は陶器のように真っ白、雪景色。年に一回あるかないかのこの日が映画「あしたのジョー」公開日である。座席は指定で確保、すべては映画中心で時間を過ごす。

※近所のしょぼいシネコンの、一番大きいホールをあてがわれていたが、満席とはならなかった。客層はオジサン、ジャニーズファンの母娘など。オープニングで八木正生作曲の懐かしいテーマ曲のイントロだけ流れ、尾藤イサオの声は無し。よくできたドヤ街の風景、泪橋を渡るジョーの姿。アップになると帽子のフチが擦り切れている。いいねえ、正しいねえ。

※白木葉子の設定が、原作とは異なっていて違和感があったが、1970年代前後には金持ちの篤志家というものがいたということが、現在ではもはやわからなくなっているためであろう。お金持ちのお嬢さんがドヤ街やボクシングにかかわる動機をなんとか見いだそうとして付け加えた設定であった。しかしそのために、陶器のような、と表現される白木葉子像が、もっと平凡な、弱い人間になってしまった。短い上映時間の範囲で人々を納得させるには必要であったという人もいるかもしれないし、無用であったといえるかもしれない。見るからに白木葉子、という印象の女優さんさえいれば、あのような小細工は必要なかったのかもしれない。

※力石君は常にジョーの二歩も三歩も前を歩いていて、いつもジョーは置いて行かれてしまう。その焦り、恋い焦がれるような思いは、超えられない兄であり父でもある存在であることを示す。ところが映画では力石出所時に「待ってるぜ」とジョーに声をかけていくのである。それは違うのだ。力石は、目の端にジョーを見てはいるが、正面にあるのはおのれの未来である。ジョーを待ったりはしないのだ。だからこそジョーは追いかけるのである。



※いくつか残念な点はあったが、それでもこの時代に映画化してくれて、本当に嬉しかった。それに、主演の二人の俳優さんの、真にボクシングができる身体作りの努力には頭が下がる。拳闘シーンにおけるリアリティは、彼ら二人の努力無しには、かなり陳腐なものになってしまっていたであろう。そして、丹下段平が、あるいは藤岡重慶が乗り移った、といってもいい香川照之。彼の存在無しには成立しなかった映画であった。

※倍賞美津子が出ている必要性がなかったのと、ラストに宇多田ヒカルの曲が流れるのが、意味不明でわけわからなかったが、それ以外はおおむね好意的に見られた。伊勢谷友介がCASSHERNでひどい映画に出さされた雪辱を果たしたといってもいいのではないか。あの映画の監督って宇多田ヒカルの旦那じゃなかったっけ。因縁、ですかね。
タグ:映画 マンガ
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