SSブログ

仰天記事

【2月20日】
以前、「女ひとり」という歌に登場する着物の種類や組み合わせについてのちょっとした疑問と考察を書いた。▲以下、2008年6月15日の日記より再録。

▲…ここでは女ひとりの歌詞について書く。(1)三千院にいる女は「結城に塩瀬の 素描の帯」、(2)高山寺の女は「大島紬に つづれの帯」、(3)大覚寺の女は「塩沢がすりに 名古屋帯」を着ている。3人とも、織りの着物で、ほとんど京都製のものを着ていないのである。つづれの帯と最後の名古屋帯が西陣製かもしれない。京友禅なんて着て寺には来ないのである。しかし、京都には西陣御召があった。御召を着ていても不自然ではないと思うのだ。しかしこの曲は1966年、昭和41年の発表だから、その頃には西陣御召が衰退していたのだ。まあ、細かく見ていくと「塩沢がすり」って何?とも思うし、大島につづれって、かなりくだけた綴れ帯なんだろうなあとか、名古屋帯って言うだけじゃ情景が浮かんでこないよなあとか、あれこれあるのだが、それはまあいいとして、なんとなくだが京都に一人でいる女、というのは外部からの訪問者であろうと思われるのである。


▲以前の日記でディスカバー・ジャパンキャンペーン(1970)を仕掛ける準備段階の頃、1968年には「日本」という言葉を発することにすらナショナリズムを感じる風潮が電通社員の中にあって、キャンペーンタイトルに「日本」という語を入れることを避けたらしい、と書いたのだが、永六輔とデュークはそういうのにお構いなしに1966~1969年の間、各地を回り「にほんのうた」というアルバムを作った。これって、「なのにあなたは京都へ行くの」的な「京都に行けばなにかある」「京都に一人でいる女には何かある」妄想みたいなものを固定化させたのじゃないかなと思う。男にしたら、恋に疲れた女が一人でふらついているからチャンス!京都へ行かなくちゃ!みたいな。1972年には恋の戦争に敗れた乙女は北国へ向かう(チェリッシュ「だから私は北国へ」)ようになり、ちょっと行く先のバリエーションが増えるが。まあ、いずれにしてもこの歌の残した妄想が、実は今でも生きていて、スゴイ影響力だったんじゃないかと思うのである。もしも3人の女が着ていたものがそれぞれの出身地のものだったとしたら、茨城県、鹿児島県、新潟県の女だったのか、それともどれも結構お高いものですから、そういうのが買える裕福な人だったのか、3人の身元を探ってみるもの面白い。いずれにしても古寺には織りの着物が似合いそうですわね。手水も使うし土埃あげて坂道も上るし。つまり、京友禅は古寺に似合わない、といっているのかもしれない、というのは妄想です。(ここまで再録)

※まず感じたのは、結城に塩瀬の帯ってまあ、悪くはないけど、ほっこりした着物には真綿紬の八寸帯あたりが一般的なんじゃなかろうかと感じていたし、大島につづれ、というのもピンと来なかった。その後、古着屋のおじさんに「大島に合わせてしっくり来るつづれの帯ってどんなん?」と尋ねたら、ヤフオクでぐるぐる回っているような花だか壺だかの抽象柄でなぜか朱と金という軽い感じのものだった。昭和30~40年代の象徴的な帯といってもいいかもしれない。着物本で「礼装に使えます」というような金ピカに鳳凰といった格のあるものではない。

※これらの思索と調査を総合すると、私の分析では(1)結城に塩瀬は帯が冷たい感じがして、少し違和感がある、(2)大島紬につづれの帯は、当時の流行品なら、そういう組み合わせもあったと思うが、今になってみるとチープ感がぬぐえない。(3)塩沢絣に名古屋帯、だけでは情報が足りない。単衣で着ていたとするなら、名古屋帯は八寸だったかもしれない。…というようなあたりに落ち着いていた。

※ところが、昨日の新聞を読んで、ちょっと仰天してしまった。●以下引用。

●朝日新聞2011年2月19日朝刊連載「うたの旅人」「着物が秘める日本の美」永六輔作詞、いずみたく作曲「女ひとり」

…京都が舞台の「女ひとり」に歌われるのは結城紬(茨城県)、大島紬(鹿児島県)、塩沢絣(新潟県)と、他県で織られる布地だ。なぜだろう。/作詞した永六輔さん(77)は、「フォークソングの登場で時代が変わった。もう作詞をやめようと思い、最後に作ったのが『にほんのうた』シリーズです」と話す。…祖母が着物に詳しく日常会話に着物がよく出たため永さんは産地の見分けがついた。「でも、歌詞は自分の好きな着物を並べただけで、いい加減なんです」と笑う。その言葉が照れで、深い美意識に裏打ちされているとわかったのは、着物の研究家でもある田中優子法政大学教授に会ってからだ。「歌われた着物は、取り合わせがとても洒落ている。藍染めの結城は軽い感じで、しっかりした羽二重の塩瀬が合う。帯の地色は白で季節は春先。大島は泥染めで、つづれ織りの帯ともども重厚感があり晩秋のにおいがする。帯はペルシャ模様が浮かぶ。塩沢は生糸で織った本塩沢で薄手でシャリ感があるから夏ですね」と名探偵のように解き明かした。…田中教授は「歌われたのは、30歳前後で経済的に自立し、日常に着物を着る女性。恋に疲れた女性が急に華やかな着物を着るわけがない」と明快だ。


※ビックリしたのは、(1)結城は、着たら軽いが見た目は決して軽くは見えないだろう。ほっこり感からすると季節は春先とは思えない。(2)大島はたとえ泥染めであっても重厚感があるとは思えない。ペルシャ模様のつづれ帯ってどんなんだろう?それってひょっとしたら礼装にもいけますタイプではないのか?大島が晩秋に似合うとも思えない。そもそも、帯付きで歩いている季節でなければ、高山寺の境内で帯が見えるはずがないではないか。(3)おそらく塩沢絣というのは塩沢紬であって本塩沢ではなかろう。たとえ本塩沢であっても、夏には着ない。単衣か袷であろうから、夏では決してなかろう。では夏塩沢だろうか?夏塩沢は麻織物の衰退によって生まれたものだから、この歌の当時は大して一般的ではなかったと思われるから、これまた夏ではない。それに夏物だったら「名古屋帯」とは書かずに「博多の帯」や「絽縮緬」、あるいは「紗の帯」とか語呂の問題もあるだろうけど、季節感を出したと思うのだ。

※さらに意味が不明なのは「恋に疲れた女が急にはなやかな着物を着るわけがない」というくだりだ。これは記者が文章下手なんだろうと思うが、「日常的に着物を着る女性が、恋に疲れたので堅実な着物(紬類)を着ている」という意味とも取れるし、「普段着ていない人が恋に疲れたからといって、いきなり着物を着ないだろう、だって着物は華やかなんだから、そんな気分になれるはずがない」という意味にも取れる。 歌には「はなやかな着物」なんて登場しない。3点とも、まあいえば日常着。旅や、ものによっては「おさんどん可能」な着物だ。そこから察するに、田中教授のコメントを聞いた記者の中に、「着物=はなやか」という思い込みがあったのではないか。
 
 歌の当時は今よりもまだ着物が一般的で、日常着ではなかったものの、お茶のお稽古だとかなんかで若い人でも着る機会は今よりは多かった。だから「急に」着たわけではないだろう。1970年の大阪万博の記録映像には多くの着物姿が残されている。遠くから、混雑する場所にはるばる移動するときでも、当然のように着物を着ている人はまだ残っていたのである。なので、着物を着ている=経済的に自立、というくだりは、時代背景無視ではないだろうか。結城や大島を自腹で買える収入を得ている女性が、昭和30年代にどれだけいたというのだろうか。


※田中教授は「布のちから 江戸から現在へ」という本も出している人なので、よけいにビックリしたのだ。しかも着物姿でテレビにも登場しているんだから、着物の生地の風合いや用い方などの区別くらいは当然ついていると思っていた。それだけにこの記事にはビックリしたし、「明快」に解き明かしたとされる内容が、あまりにも無理があったので、あれを読んで真に受ける人がいると、また話がややこしくなるなあと困ってしまったのであった。歌詞の内容は、実際のところ、永六輔の言うとおり、「いい加減」だと受け止めるのが正しいところだろうと思う。なんだか、今までこの歌の歌詞について考えたこともなかった人が、突然記者に尋ねられて、さもわかった風なことを口走ってしまったように思えて、しかもそれを書いた記者に着物の素養がなかったというダブルパンチで、これはまずかろうと気の毒にすら感じられた。歯切れのよい蒙昧。
タグ:新聞記事

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。