SSブログ

その場しのぎ

5月3日】もう単衣になっちゃいました
きょうの着物:水色チェック単衣・「商標:だるま紬」。新古品6800円。
きょうの帯:ローズピンク地に白百合の博多八寸。古着屋で1000円・未使用。
きょうの帯飾り:百合に止まるミツバチ、ということで蜂のブローチ。
きょうの半衿:江戸小紋の霰小紋ハギレ、315円。
きょうの長襦袢:単衣ぼかし・袖だけ別生地・古着屋で3800円。
きょうの帯揚げ:黄緑地金ラメ糸水色~茶色のぼかし・いただき物。
きょうの帯締め:パステルカラー平組・いただき物。
きょうの履物:畳表・側面にウサギの彫りの台・鼻緒水色に蛾のような蝶の刺繍。
きょうのバッグ:南国系オウム・スパンコール付・洋服屋で6800円。
きょうの足袋:塗り塗り足袋・阪神優勝バージョン。

※大東亜共栄圏の帯がご縁でおつきあいが始まった北海道の大学の先生が、関西にいらっしゃるというのでお目にかかる。戦時下の「戦争柄着物」のコレクター兼研究家で、お手持ちの戦争柄のカラーコピーを見せていただく。どれも図案家が工夫を凝らしていて、似た感じのものがあっても同じものはない。伺ってみるとほかのコレクターの方のものとつきあわせてみても、色違いが全体の1~2%見つかったくらいで、同じものが重なったことがほとんどないそうだ。
※確かに、古い着物愛好家の方の写真を見て、私と同じものを着ていらっしゃることはないし、今と違って少数生産だったためかとも思うが、もしそうだとしたらネットオークションでよく見かける「黒地に市松、その上に狆」の織り名古屋帯は、相当数作られたもののようだ。かなりありふれたものなのに、毎回結構入札価格が上がるのも不思議だ。
※あれこれお話ししていて、先生のまわりでも「なんか変な文句の付け方」をする人が以前よりも増えたらしい。私の体験や他の方からのお話を総合すると「その場しのぎの正当化」または「その場しのぎの責任転嫁」という言葉に集約される現象のようだ。

※たとえば、うちの店はたとえるなら「場末のソニープラザ」みたいな店で、安くて可愛い(長持ちしないが)、女子小中高生から主婦がついうっかり買うようなバラエティ雑貨を扱っていて万引きも多い。見つかったら学校に連絡が行くのだが、「豊かな将来のある我が子の将来にケチつけるようなことをするな」と、怒鳴り込んできた親がいた。
※将来にケチをつけたのは、女子高生自身の万引きという行為なので、それがいやなら万引きしなければいいのだが。
※社会的に許されないことをした場合、その場で叱るのが親のつとめであると同時に、将来的に本人のためになることだと思うのだが。
※これは「その場しのぎ」で我が子を正当化し、学校に知らせた店が悪い、という責任転嫁を行っている好例(悪例?)である。犯罪行為をしても自分以外の誰かが悪い、という責任転嫁と自己正当化の悪例を親が子どもに教えているようなもので、先々問題が起こったとき、同じような対処をしてしまうことになるのではないだろうか。その場できちんと叱らないことが、長い目で見て本人のためにならないと思うのだが、どうも親は「子どもに嫌われるのを恐れている」ようだ。
※帰宅後、たまたま借りていた1974年の映画バージンブルース(藤田敏八・監督)を見る。主人公の友人、集団万引きのリーダー格の少女は(といっても4浪してるから21歳くらいか)、実家に逃げ帰ったら即、親が警察に電話しようとして逃げ回り、そのあげく警察には連絡しない代わりに座敷牢に監禁されてしまう。
※「よくもうちの家名に泥を塗ってくれたね」という母親の台詞には、まだ当時残っていた家父長制が感じられるが、その分を差し引いても、いくら我が子でも悪いことをしたら罰せられて当然、という意識が確立している。最終的に彼女は警察に出頭する。主人公は逃避行のままだ。まだ若いうちに軽犯罪でお縄になる方が、やり直しもできようが、主人公は海に泳ぎだしたまま生死不明で映画は終わる。


※主人公も実家に戻ったとき、祖母が「戻ってきたら即、駐在所へ電話する」というのを聞いて逃げ出したわけで、「おまえが悪いんじゃない」とかばったわけではなかった。たまたま連れ(脱サラに失敗して蒸発寸前の中年男)が居たがために、あてのない逃避行に走っただけだ。
※蒸発寸前の中年男は、いわば主人公の親でもなく、彼女の未来について考える立場にない、責任のない人物で、どちらかというと男本人が糸の切れた凧状態で、明日のことなどあまり考えない人物だ。
※この時代には、警察に突き出す親(世の中に対して責任をとろうとするとも言える。子どもが犯罪者となれば、当然親も共に世間に頭を下げる覚悟があるだろう)と、責任がないから事の是非を問わず行動を共にするフラフラした人(主人公が万引き犯だろうが責任をとる立場にない人)の二項対立という図式だったが、今はもうひとつ、「子どもに嫌われたくないし、世間に頭を下げる気もないので子どもを正当化・責任転嫁をする親」という項が増えたということかもしれない。
※しかし糸が切れた凧のような脱サラ男も、ありとあらゆる責任から逃げては居たのだが、逃避行のさなかには「俺はバージンを守る義務がある!」と言い放ち、そう信じられた時間の中では、彼なりに生きる意味みたいなのを感じられていたようだ。糸が切れた凧(脱サラ男)は、糸を切った凧(実家から逃げた主人公)に対して責任を負うと自分で思うことで、なにかに糸をつなごうとしていたのかもしれない。でも結局糸を切った凧は海に消えてしまう。「その場しのぎの疑似責任」みたいなのの、悲しい幕切れだ。
タグ:映画

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。