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内藤ルネとカーテン屋が教えてくれたこと

【6月30日】
きょうの本;内藤ルネ自伝 すべてを失くして
※ふらっと入った本屋で見つけて、夕食の支度もそっちのけで一気読み。内藤ルネに関しては去年の11月26日の日記でも書いている通り、思い起こせばあれこれ影響を受けていたのに、長い間思い出さずにいた人だ。「薔薇族」の表紙で見かけるようになった頃に、ああ、あっちの世界にいっちゃって、もうオトメの相手はしてくれなくなったのかな、なんて思ったこともあった。だけど美しいものを求める心はずっと変わっていなくて、ただ、活躍の場所が制限されてしまった結果だったことが、本書でわかった。

※タイトルの「すべてを失くして」は、バブル終わりかけ以降の悲惨な出来事を指す。7億円ほどだまし取られるわ、住むところも仕事もなく、もう首をくくろうか、と思ったのを思い直したのもつかの間、心臓を患って入院を余儀なくされるわ、という本当に悲惨な時期があったそうだ。修善寺の内藤ルネ美術館は、パートナーのトンちゃんが、ルネさんの生きているうちに竣工させようと、本人も患っている中、奔走した結果できたものだったらしい。

※なんでもあとになってわかることだが、なんの情報もない時代に、ルネさんの琴線に引っかかる美しいものは、今になっても生き残っている。ビスクドールなんて、日本の誰も(ルネさん本人も)名称を知らない時代に、ただ美しいからという理由で買って帰り、雑誌で紹介したのが今日のコレクターを育てたといえる。本人も少し悔やんでいるところもあるのだが、自分が知識を流布させたせいもあって、値段が上がりすぎてもう買えなくなってしまった、という面もある。

※もともとルネさんには、「誰も気づいていないけれど美しいもの」を発掘する能力があって、本書の中では「鵜の目ルネの目」と表現されているが、いわゆる慧眼というのだろう、ほとんどすべてが後にヒットしたのだ。またもやみゆき族の話になって、私もビックリなのだが、そもそも「紙袋を小脇に抱えるのがおしゃれ」という発想自体は、VAN以前にルネ提案だったそうだ。

※売れっ子になるまで、いやなってからも、今のように版権がどうとか著作権がどうとかいうことが整備されていなかったので、ギャラも住環境もそんなに恵まれていなかったようだが、だからこそ、美しくする工夫が次々に生まれたのかもしれない。ペンキを塗る、というのもそのうちの大きなヒットだ。かくいう私も、整理箪笥に白いペンキを母に塗ってもらって、ルネのシールを貼っていた(余談だが、この母というのが、姉のランドセルに赤ペンキを塗って新入学の私に持たせたツワモノである)。

※ちょうど「いい木材にペンキを塗りたくって去った進駐軍」と話がつながって、あんただってペンキを塗っていたじゃないか、といわれそうだが、結局のところ「これは塗ってもいいものか悪いものか」の判断力の有無の話になるのだと思う。塗った方がましなものと、そのものが美しいので塗る必要のないものの区別がつく審美眼が、進駐軍にはなかった、ということだろう。私だってサルスベリの床柱にペンキを塗ろうとはしなかった、さすがに。

※実際、ペンキ塗りが広まった結果、よい木材にも塗っちゃって親に叱られた娘さんがいたらしい、というエピソードも載っていた。ルネ式は、そのままではとても見るに堪えないが、ペンキだけで生まれ変わらせることができる、という提案であって、何でもかんでも塗りましょうといったわけではない。

※前述のように、悲惨な体験をされたルネさんが、今になって再度脚光を浴びて、ご自分の言葉で語る機会が与えられたのは嬉しいことである。人を憎んだりねたんだり陥れたり、そういうマイナスの心の使い方をしてこなかったからかなと思う。常に、いい絵を描きたい、読者をビックリさせたい、美しいものをみんなに知ってもらいたい、そういうきれいな心持ちで来られたから、神様が今になってご褒美をくれたのかなと思う。

※古着屋で着物をなるべく安く買って、手入れしてきれいになるのが嬉しいのも、実はルネさん式が染みついているのかもしれない。もともと大阪人だから、「いいものを高い値段で買ったって、当たり前で面白ない」と思っているところにくわえて、「誰も気づいていないけれど美しいもの」を発掘する喜びがそこにはあるのだ。今では全体に値段が上がってしまって、また古着購買人口も増えたので、そのあたりの喜びは少し薄れたかもしれないが、基本はそれだ。

※ルネの華の時代は1972年「私の部屋」創刊から始まる。「同誌はインテリアブームの先駆けとして創刊され、『ニューファミリー世代のリビング雑誌』として人気を集める。終戦から25年余、衣食住のうち、ようやく『住』の部分に幅広い関心が寄せられた時期でもあった」(同書より引用)。編集からの指定はなく、毎号自分のアイデアで、好きに頁を構成することができたのが楽しかったようだ。ありとあらゆる美しいもの、かわいいものについての連載は1992年まで続いた。これが、ちょうど私が「カーテン屋の娘」であった時期とほぼ重なる。インテリアブームに乗っかって、両親がインテリアショップを開業したためである。72~3年に近所のファンシーショップでルネグッズを買っていて、72年末には自分自身がインテリアショップの娘になり、89年に家を離れるまでインテリア商品を見続けた。

※今から思うと、店の中には二つの価値観とその亜流の三つが存在した。つまり、ルネ的「なけなしでもかわいい物、きれいなものを工夫しましょう」というアイデアをそのまま商品化した、ややチープなものと、戦前からの繊維産業の流れを汲む重厚な高級品の二つ、そしてそのあとに後者を真似た見かけは重厚にしようとしているが実はチープなもの、の三つである。

※そもそも、ルネの提案はある意味「DIY」だったと思うのだが、それが既製品になるとチープ感は否めない。たとえば白と赤のギンガムチェックのカーテンがあったとすると、綿ブロードの薄い生地で、ルネ風を真似しただけのものだったら、ひどいものなどタックも取っていない「単なる幕」だったりした。チェックも先染めではなくプリントの場合もあった。ところが戦前からあるようなメーカーのものは、同じようなデザインでも生地が先染めの綾織りで、ちゃんとタックが取ってある。お財布の中身次第で、前者か後者を購入すればいいのだが、その間に落ち込んだ消費者には「帯に短したすきに長し」感があった。そこで登場したのが「後者を真似した見かけは重厚なもの」が登場する。綾織りに見えるようなプリントもの、といった商品だ。遠目には一瞬高そうに見えるのだが、ちょっと近づくとバレバレだった。触ってみればよけいにはっきりする。そういうわけで、私は品質の見分け方を
カーテン屋の店先で学んだ。生地を見る、織りを見る、手触りを確かめる、裏を見る。触って裏を見れば、生地の善し悪しというのはだいたいわかるものである。

※高級品メーカーは川島織物で、カーテンの生地見本は、よい生地とはどのようなものかという教科書だった。カーペットの見本帳は、繊維による発色の違いを知る教科書だった。アクリルのカーペットは発色はいいけれど使用後へたるのは早いし、静電気も起こる。ウールのカーペットは発色は劣るけれど消耗度合いは低い。ただ、使い始めしばらくは遊び毛が出る。しかしそれがウールの証なのだ。お客さんは遊び毛が不良品のように感じる人もいたけれど、それは「ものの良し悪し」がわかっていないからだ。


※高いものは上品だったし、安いものは可愛かった。だけど、その中間のものは「下司」だと私は感じた。中途半端はろくなことがない。そんなわけで、着物も思いっきり高いか、思いっきり安いか(昔は高かったものの方がいいが)、そういう選び方になっているのだと思う。

※つらつら思い返すに、内藤ルネと私の子ども~娘時代はうっすらかすっていて、直接的・間接的にいろんな影響を受けながら来たんだなあと感じ入る。ところが情けないことに、現在のワタクシの店(ファンシー雑貨屋)では、ルネグッズはまったく売れなかった。やっぱり場末では理解されないのだ・・・。
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