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「着物を着る私」ブーム

【7月15日】
きょうのいいわけ:雨が降らない6月後半、過ごしやすいのをいいことに
         遊んでいて、雨が続き出すと、うっとうしくてほったらかし。

※なんのことかというと、着物の始末のことである。単衣・夏物、適当に抜き出して着たり、袷も出たままだったり、麻の襦袢に塩瀬の半衿が付いたままだったり、もう、むちゃくちゃだったのだ。

※今日、ついに我に返り、冷房を入れて片付け着手。もううんざりだ。ショックだったのは、この間必死で継ぎ当てした矢羽根の縮みに、もう一カ所穴が見つかったこと。どうも着用時に空いたもののような気がする。生地がもうダメなのかも。最期を看取ることになるのか・・・・。

※夏物の数はそう多くないのだが、問題は傾向がバラバラなこと。思いつきで買うとエライ目に遭う。いや、私が悪いんですけど。袷のものは、解いて仕立て替えた方がいいのがいくつか。しかし先立つものが・・・。

※気温32度を超えると、気が遠くなり廃人化が始まっているのを感じる。

※話題変わって。先日、開かずの間の本を少し整理したら、林真理子の「着物の悦び―きもの七転び八起き」 新潮文庫 が出てきて、再度読んでみた。当時は着物の本が少なくて、どんな情報でもよいから吸収しようと必死になったものだ。再読してみると「ウブだったなあ・・・」と感慨にふけってしまった。平成4年の単行本初版、文庫化は平成8年、文庫化の際のあとがきで「着物ブームは起こらなかった」と書かれており、実際、着て出かけると遠巻きにされた頃である。まだ呉服屋経由の話がメインで、「しま亀」の名も知らず、今となっては呉服屋を迂回し、しま亀にも当分縁のない身の上である自覚があるが、当時は「ちょっと欲しいかも」と思ったものだった。もちろん、これから縁があってもいいですけど。


※今では「世は今、着物ブームだ。」となんの疑問もなく書かれる時代となった。これは朝日新聞7月10日の書評欄、「ハイカラ手ぬぐい案内」についての、ライター・中沢明子さんの書評からの引用だが、もう少し続けると、あまり好意的な書き方ではないのだ。

<引用続き>
●「ブーム」と言っちゃあ、人聞きが悪ければ、「着物のすばらしさが再認識されている」とでもいいましょうか、いずれにせよ、「おしゃれな人々」がこぞって「着物、着物」と言っているのがいけ好かない。そんな評者でも・・・・彼女の”着物バナシ”には、気取りや気負いがなく、ましてや「着物を着る私」で「粋な私」を演出する気もさらさらないのが、めっぽうステキ。

※つまり、この本の著者は別として、昨今の着物好きには「気取りや気負い」があって、「着物を着る私」で「粋な私」を演出しているように思え、いけ好かない、と評者は感じているということだ。「気取りや気負い」については最後でもう一回書きます。

※まあ、そう思われても仕方ないかな、と私も思う。どこか、やっぱり「他の人と差をつけるための道具」として着物着用している人もいるだろうし、その意図が剥き出しの人もいるだろうな。

※ただし、この評者も何かのきっかけで着用するようになれば、「粋な私」を演出するための着物どころか、野暮なものばっかり現実には作られているということに気づくだろう。着物ブームがもし本当なら、もっと気の利いたものが作られてもいいはずだ。本当は着物ブームなのじゃなくて「着物を着るステキな私」ブームなんじゃないのか。

※どちらの「ブーム」かはともかく、「ブーム」と呼ばれる前に出された本が、新装刊された。「きものでわくわく」。大橋歩さんの、当時は数少ない参考書の一つだった。家にあるもの、親に買ってもらったもの、自分で誂えたもの、つまり「本当に着ているもの」の床置きコーディネイト写真が見やすく、実感の持てる内容だった。この写真の撮り方は今でも継承されているが、それまでは二大着物雑誌的「女優さんが着る呉服屋新作写真」くらいしかなかったと思う。



※この本は1997年の出版だったが、これより前1989年に「どきどき着物」が出されている。さらに、それより以前に大橋さんが書いた文をご紹介。「暮らしの設計」(中央公論社)の「おしゃれ」というテーマでの随想。70年代後半か80年代前半の号なのだが、詳細不明。引用としては不十分な点があるがご容赦。ちょっと長いし。

●着物を着ると・・・・  大橋歩(イラストレーター)
 洋服を買った日は、とっても幸せ。着てみて、ああでもない、こうでもないと
鏡の中をのぞきこんでいる時も、とっても幸せ。明日は新しい洋服着ていこう、
そう思うと、ワクワク胸が躍るのです。
 おしゃれしているんだとゆう気持ちは、新しい洋服買って着て出かける時には、
あんまり感じない。ヘヤー・スタイルを変えてみたからって、すてきなハンドバッ
グ買ったからって、すてきな洋服身につけたからって、別におしゃれとゆう意味も
言葉も、私にとっては関係ないみたい。
 そういったことは、特別のことではなくって、あたりまえで、あたりまえのくせ
して胸を熱くさせるものみたい。
 自分で、おしゃれをしようと思う時は着物を着る時みたい。
 きちんと束髪に髪の毛を結ってもらって、ちゃんとお化粧して、一つ紋の訪問着
を着た時だけに限らず、木綿の縞の着物に、鳥獣華紋の帯を締めて、自分流に髪を
たばねて、出かける時にも、おしゃれしているんだみたいな満足感が味わえる。
 でも一体、おしゃれってゆう言葉は私の場合、なんだか違和感があって、それは
多分、あんまりにも客観的な言葉のせいかもしれないけれど、着物を着た時にはお
しゃれしているって書いたけど、ニュアンスとしては、ちょっとちがうみたいなん
です。
 そういった意味では、私にとっておしゃれって言葉は、どんな場合にもあてはま
らない。例えばソニア・リキエルの洋服買ったとしても、サンローランの洋服身に
つけたとしても、そのへんで安いスカートを買って身につけることとちっとも変ん
なくって、気に入った服を身につける、かっこうよく装うことでしかありません。
 着物の場合は、おしゃれして出かけなければならない時に、実にぴったりだとゆ
うだけみたいな気がしてきました。





※まず「・・・という」を「・・・とゆう」と表記するのは、この時代のクリエイターのような人々に共通に見られた現象であるので、ちょっと気には障るが流すとして(曖昧だが、時代は桃井かおり中心に流れていた頃だと思われる)、自分にとっての着物がどういう存在なのか、洋服の時と比べてあれこれ思索するものの、最終的にはよくわからなくなって、締め切りが来てしまった、という感じの文章である。しかし、おそらく、この右往左往・紆余曲悦が、その後の「どきどき着物」につながっていったのだと思う。上の文章はその前夜、という位置づけになるものだろう。

※この時点ではどうしてもたどり着けなかった結論は、おそらく「洋服になくて着物にあるもの」の正体を見極めることにあったのだろうと思う。つまり、いかに最新だったり高かったり気に入った洋服を着ていても、それを「おしゃれしている」とは思えないが、高価でもなく別誂えでもなくても着物の場合は「おしゃれ感」がある、この差はなんだろう?ということが明確になれば、こんな迷路のような文章にはならなかったのだと思う。

※私の仮説だが、「洋服になくて着物にあるもの」は、おそらく「自分の存在以前の蓄積」みたいなものじゃないかと思う。ソニアだろうがサンローランだろうが、今年作られたものは同時代のもので、まあ、同級生みたいなものである。私がたとえば私立三流校の出身者でも、同時代なら、たとえ日比谷高校の学生でも、多少会話のグレードに差があったとしても、多分インベーダーゲームしてたんだろうな、と、だいたい中身は想像が付く。

※しかし、着物というのは今織られて、今仕立て上がったものでも、その原型が自分の存在が発生する以前からあって、「遠い先輩の写し」みたいな思いを抱かせるところがあるのじゃないだろうか。その思いの中には「敬意」みたいなものが含まれているのじゃないか。

※もちろん、サンローランにもソニアにも、現在の供給品以前に歴史はあるのだが、いかんせんよその国のもの。それを消費する日本人の中に、そんな「有史以前」のものが伝わっているはずもない。



※おしゃれした、という満足感の有無は「有史以前にたいする敬意」に依拠するのじゃないかと思う。このあとの「どきどき着物」「きものでわくわく」には、そのあたりのことがかなりはっきりしてきて、小さい時着せてもらったもの、親に買ってもらったもの、など、自分の意志でどうのこうのできる時代以前から話が始まっていたと思う(この辺の構成も今、現行品のキモノ本の中で見られる)。

※たぶん、なんだろう、この違いは?とかなり悩んで考えて、そのあげくの本だったから、私たち読者に受け入れられたのだろう。「有史以前への敬意」というのは、たいてい(今でも)「着物は日本の伝統的民族衣装だから敬意を払え」的押しつけ文章で始まって、私などはその一文で萎えてしまったものだが、これは先だって書いたところの「教養(しかも押しつけ)」であって、自分の中に蓄積された「素養」ではなかった。大橋歩さんは、自分の中にある素養を見つめ直して、そこから「敬意」を見いだしたのじゃなかったか。

※平凡パンチの表紙でイメージされる、軽い、流行の、欧米文化礼賛的イメージとのギャップもいい方に働いたかもしれないが、そういう「ナウい(死語)」とされる人が、今の(その当時の)言葉で書いてくれたのがよかったのだろう。ちょうど、旧世代と新世代の橋渡しをしてくれたのだな、と今では思う。

※わけわかんなくて、けったいな格好を平気でして酔いしれている小娘たちに、ぜひ読んでもらって、先人はこういう苦労とか旧世代との葛藤を乗り越えて、なんとか等身大の、自分の感覚にあった着物を追い求めてきたんだ、と言うことを感じてもらいたい。

※それと、「おしゃれした、という満足感」の中には、いくばくかの「気負いや気取り」が含まれていると思う。それが見え見えなのは見苦しいが、そういう気持ちがなければ、おしゃれをしたという満足感は得られないだろう。。
 ゆえに敬意を払わないですんでしまう「洋服感覚」で着物を着ましょう、というのは、敬意を払わないでいいですよという意味である。気負いも気取りもいりませんよ、という意味である。つまり、いつまでたっても「おしゃれ」にはたどり着かないということになるだろう。
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