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クール・ビズで失うものって?

【7月22日】
ついに36℃。

きょうの反省:暑くなる前に手を打っておくべき。

※なんのことかというと、夏の着物と帯は、30℃をちょっと超えたくらいまでには、全部一回並べて、どれどどれを組み合わせるかをあらかじめ決めてセットしておくべきだということ。ここしばらくのように34℃を超えると、体も動かないばかりか、思考力も低下して、一体何をどう着たらいいのか、さっぱりわからないのだ。

※来年のための覚え書きのようなものだが、毎年同じような目に遭っているのに、なんで今年、このことに気がつかなかったのだ。どうも、廃人化し、覚え書きを書くことすら思いつかなかったらしい。

※水曜日に挫折したのも、帯と着物の取り合わせがどうも納得できなくて、しかもそれ以上考えたり迷ったりする気力もなく、見切り発車しようとしたが、見切り発車する燃料すらなかったというわけだ。

※そういうわけで廃人化まっしぐらの私だが、やはり用事があると外出せねばならぬ。例によって郵便局に行くが、その帰りに長袖の制服を着て、レッグウォーマーを装着している女子社員を二人見かけた。きっと職場が冷房で寒いんだろうなあ。私の暑がり度を分けてあげたいくらいだ。クール・ビズは首都圏あるいは永田町周辺だけのことで、どうも大阪ではまったく無視されているらしい。というのも電車の中も寒いし飲食店の中も寒かった。

※今日の朝日新聞に能沢慧子先生(東京家政大学・服飾文化史)がクール・ビズについて書いている。「快」のかわりに失うもの、という副題が付いている。ネクタイを外しただけのシャツ姿というのは「被告人か半病人」に見える、という。わはは。確かに。なので、ネクタイを外してさまになる衿のデザインを試みるべきだ、という。確かに。でも、別に新たに作らなくても、ボタンダウンか開襟シャツを着ればいいのではないか。国会のおじさまたちがワイシャツからネクタイを外した「被告人」状態になっているのは、ネクタイを外してもさまになるシャツを持っていなかった、あるいは、ボタンダウンを買いに行こうという発想自体がなかった、つまりネクタイを締める前提のシャツ以外、着たこともなければ、ネクタイを外した姿はどうも格好悪い、という美意識もなかったということだろう。



※私の前の家の近所の目医者さんは、当時70才代のおじさま。白衣を着ないで、いつも真っ白な麻の開襟シャツをぱりっと糊付け状態で着ていらした。あれが日本の夏にはちょうどいいのじゃないかな。

※で、能沢先生の論に戻るが、「背広とネクタイの組合せは、着る人の内面の弱さを隠し、体型を引き立て、現代社会人としての自信を与える」から、背広とネクタイを取り払い「涼」を得たとしても、失うものが多い、という(失うものの中には「文化と伝統」が含まれるらしいが、それは西洋社会でのことで、日本において背広に文化と伝統が含まれていると言っていいのかどうか疑問だ)。それはともかく、背広がなかなか現代から追放されないのはその利点・効用のゆえであろう、というのが結論。

※そして、さらに政治がクール・ビズというかけ声で、強制はしていないが、個人的主題である服装に介入するとき、「ファッショ」に陥る危険性をはらんでいる、という。

※論が混乱しているかも。そもそも背広とネクタイは、個人の特有性を覆い隠す鎧として用いられてきたものだと、能沢先生は書いている。この場合の背広は、個人的主題としての服装ではないだろう。社会的規範、公の人としての制服であって、その鎧の一部を外しましょう、ということがファッショになるとは思えない。というより、みんながみんな、背広を着ているこの状態こそがファッショではなかったか。ナチスのようにわかりやすいリーダーがいないので気づきにくいが、就職活動する大学生が一斉にリクルートスーツを身につけるのは何故なのか。それを着ていなければ話にならないからである。ひとまず、今の社会のルールの一つ、勤め人は背広を着るものだ、という社会の無言の意識はちゃんと理解していますよ、ということを示すためにも、彼らはリクルートスーツを着なければならないのである。

※ああ、今わかったが、能沢先生は政治が民衆に一つの方向を押しつけるとき、それのみがファッショだととらえているのだな。私の考えでは、ファッショというのは我々(その辺のオバハン含む)のなかに潜んでいて、誰か、何かの権力がちょっと指でひと弾きするだけで、あっという間に広がるものだと思っている。だから、ファッションそのものがファッショでもある、と考える。



※80年代にベルボトムのジーンズをはいていたら、指をさされて笑われたものだし、私の体験では86年に日傘を指している女子学生は、3万人いる大学の中で私だけだった。当然、変だと思われていたようだ(でも、暑さに弱い私には必需品だったし、祖母の日傘が大好きで使いたかったし)。指さして笑う、とか、変だと思う、とかいう、この意識こそが「ファッショの種」なのだ。それは当人が心からそう思っているのではなく、実は何かに、誰かに「そう思うように方向付けられている」に過ぎない。無意識のうちに、その時代、その時点での「普通・正常・かっこいいもの」の情報がすり込まれ、それに合わないものに対して拒絶反応を起こすように仕向けられているのだ。

※今どきじゃないから、他の誰も使っていないから、だからオカシイ、と単純に結論づけてしまうこと、そのものが、誰かが用意した「今正しいもの」「今かっこいいもの」をなんの疑問も持たず受け入れてしまっていることなのだが、このファッショはきれいな顔をして密かに近づいてくるので気づきにくいのだ。

※「今かっこいいとされているが、やっぱり変だ」もあれば「今はかっこわるいとされているが、実は素敵なもの」もある。前半は世間の認識、後半は個人の認識で、それが常に一致している人がいたなら、その人は自覚なく、すっかりファシズムに屈しているのではないかと感じる。

今年の2月14日に引用した美輪明宏さんの言葉の中にも、「ファッションはファッショである」というくだりがあった。目に見える権力者が強制したものでなくとも、ファッショはあり得るということだ。



※日本一暑い大阪のサラリーマンが、全然クール・ビス化していないところに注目すると、1,お上が何を言っても、大阪のおっさんはいうことを聞かないということで、実はもっともファッショから遠いのかもしれない。あるいは2,逆に言えばネクタイしてなければ社会人として(同類として)認めない、という暗黙の押しつけに従っている、と同時に他者にも押しつけているだけとすれば、ファシズムまっただ中なのかもしれない。

※私はどっちかというと、高温多湿の中で背広にしがみついていることが、すでにファッショだと思う。首相が「クール・ビズ強制なし」を言い出したのは、意外と本当のファシズムの在処がわかりやすくなる効果があったのじゃないかと思う。あるいは、ネクタイを外したらカッコがつかない、その代替品を思いつかない、発想の窮屈さを明らかにしてしまったようにも思う。と同時に、繊維業界の偏向も明らかになったののではないか。というのは、開襟シャツを今着ようと思っても、売ってないのじゃないかな。ボタンダウンはすぐにでも買えると思うけど。

※いずれにしても、戦争にまっしぐらのファシズムも、背広にしがみつくファシズムも、割を食うのは女である。着物を売ってお米に変えたり、真夏にレッグウォーマーして冷え対策したり。難儀やわ。
タグ:廃人
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