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季節に取り残されて~自分で着て歩け

【3月7日】
※土日に仕事しすぎたのか、今日になってダウン。右目の下にチックが出て(我が家では「にんじん虫が走る」という)、疲れが出てきたのかも。そんなわけで、またもや和裁教室をお休みしてしまって自己嫌悪。
※午前中に、洗い張りの依頼に悉皆屋さんへ行って、この勢いで今週はがんばるぞ、と意気込んでいたのだが・・・。

※お休みしたくせに、あれこれ着物関係妄想はふくらむ。妄想といっても現実的なもので、企画といってもいいのかもしれないが。実は、多忙な日々の中でもなぜか新しい帯が到着している。オークションはオソロシイ。未仕立て袋帯で、生地の織りが隙間が空いている「からみ織り」っぽい黒地で、これに単純に白い帯芯を入れたら、全体が白ちゃけてしまうのではないかと考えた。となれば、黒かその他の色のカラー帯芯を入れた方がいいかも。で、何色がいいか、折り紙各種を帯の中に滑り込ませてみる。濃い紫が、目立たず沈まずいい感じ。ところがカラー帯芯の方にその色がない。むー、むむむ。企画は途中でストップ。

※とにかく、着られる日々にならなければ、これだけの下ごしらえもむなしい。もうそろそろ、隙を狙って着られそうだが、そうこうしているうちに季節が変わりつつある。ああー、置いて行かれる。

※思い出して追記
豆千代の着物ア・ラ・モード小学館実用シリーズ LADY BIRDについて。

※「どんどん非実用化している」という直感的な感想のみ、先日書いたのだが、あれこれ思うに、なんかわかった気がした。
※端的にいうと、クリエイターとコーディネーターは違うんだけど、著者は自分をクリエーターだと勘違いしちゃったのじゃないか。すでにあるものを仕入れて売る、組合せを提示する、自分でも着る、というのはコーディネーターの仕事で、それに関しては一定の、比較的高い評価を得られる水準にあったと思う。しかし、オリジナル品を作り出したあたりから、あれ?あんなにうまく組み合わせられる人が、一から作るとこうなっちゃうの?という「がっかり感」が私にはあった。
※でも、がっかりした人が存外少なかったらしく、それはそれで売れたんだろう。だってこの本の腰巻きに「モダン着物のカリスマ」なんて書かれている以上は、そういう実績があったのだろうと想像されるからだ。
※でも、根本的に「クリエイトする」と「奇をてらう」は違うことだと思うのだ。この本の中には「いったい、この格好でどこ歩くんだよ、親が泣くぞ」というものしか見られない。まあ、新しいファッションはたいてい親泣かせなものだが、泣くにしても、もうちょっと新鮮なもので泣きたいと思うぞ。そう、この本の中で見られる「奇をてらったもの」は、「すでにどこかで見たもの」なのだ。
※どこで見たかといえば、洋服のファッション雑誌の中だ。「いったい、この格好でどこ歩くんだよ、親が泣くぞ」である。この本のコンセプトが「着物と洋服の境界は、なくなりました」だから、当たり前かもしれない。でも、本当にそうなのかな?それは着物と洋服の境界、ではなく、「道を歩ける服装かどうか」の境界ではないのか。


※奇をてらう=新しい、ファッショナブル、新鮮、という発想自体がもう古いのではないだろうか。そして、常に視野の端の方に洋服のファッションがちらちら見えているのもどうかと思う。ファッション雑誌から抜け出した服装の人が道を歩いていたのを見たことあるだろうか。あったら、結構変だろう。いろんな奇をてらった組合せや着こなしが雑誌上では見られるが、結局人々が日々楽しむのは案外オーソドックスなものだったりするのは周知の通りだ。
※結局、洋服のファッション情報と、実生活で着るものとは乖離しているのだ。それをそのまま踏襲して、実生活で着られないような着物の見本を羅列してどうするのだ。そもそも、どのようなものであれ、着物を着ているというだけで特別視される現状で、あのようなものを着て歩けば、頭が××××と思われるのがオチである。
※あら素敵、と思わせるのは「あからさまな変さ」ではないだろう。そういう人に会ったら、遠巻きにすることはあっても、私はお近づきにはなりたくない。着物の面白さって、「あからさまでないこと」にもあるのじゃないか。
※そもそも実生活から乖離していると思われてしまっている着物を題材にして、けったいなものを提案するというのは、その傾向を助長してしまうのではないか。「やっぱり、今どき着物着ている人って、変よねぇー」という結論で終わりそうだ。
※今回の本の中の組合せは、「どれも着物でなくてもいい」ものだった。どこかで、基本的なものを見失ってしまったのではないか。それは、道を歩けなくてもいいのか、という点と「着物だから面白い」という点だ。
※クリエイターであるという自覚によって成り立っている本なので、「通崎好み」と同様のミスを犯している。「コラボレーション」と「権威付け」である。カリスマだからアーチストとコラボ、カリスマなのはこういう経緯と根拠を示す「年表」。コラボ、って、着物をおもちゃにすることなのか?
※この本の中の格好そのままで、本人が道を歩いてくれたら、信用してもいい。美輪明宏氏の信用できるところは、ご託を並べず、自身で全身紫を着て歩いたことだ。人がどういおうとも、正しいと思ったことを単身で実行する、これはなかなかできないものだ。
※私も妄想の結果、けったいな格好をするが、一瞬けったいとは悟られないことを信条としている(つまり独りよがりで他者には伝わらないともいう)が、道を歩けるかどうかギリギリのところを綱渡りする面白みがあると思っている。明らかに珍奇、というのはとってもイージーなのだ。
※着物ファンを増やしたい、という地点に軸足があったなら、「わ、変」という着こなしを提示しないだろう。もう著者の軸足は、そんな地点にはなく「私ってクリエイター」という地点にスライドしてしまったのだろうと考える。そうでなければ本の腰巻きに「カリスマ」と書かれるのを黙認しなかっただろう。
タグ:ダウン
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