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そば名人・お茶つながり

【4月17日】思い出して追記
※お代わり自由でおいしいお蕎麦屋さんはそば名人利休亭なんばウォーク店です。

※関係あるようで無い話なのだが、前日、「利休亭」でそばを食べたあと、「お茶習ってます」婦人に会い、その後本屋で〈お茶〉はなぜ女のものになったか―茶道から見る戦後の家族という本に出会った。お茶つながり?
※まだ読んでいる途中なのだが、千利休が「茶聖」と呼ばれたのは意外と最近で、その権威を頂点として家元制度のピラミッドが形成されていった経緯がわかる。また、茶道は総合芸術、という表現も比較的最近の発明であることもわかった。
※私がこの本を手に取ったのには二つ理由がある。一つは「冠婚葬祭入門」(塩月弥栄子)に「千利休は、茶席での女性の衣服についてはなんのコメントも残していません(茶の湯が男性のものだったため)」と書いていた。では、昨今の「お茶席ではあれを着てはいけない、これを着るべきだ」というような規則はいったいどうやって形成されたのか。これが疑問の一つ。
※もうひとつの疑問は、茶の湯あるいは茶道というのは、身のこなしや客人をもてなす心を育成していくという面があると聞いた覚えがあるのだが、茶席帰りとおぼしきご婦人の団体は、なぜ道いっぱいに広がって歩き、他の通行人の迷惑を省みないのか、これが疑問の二つ目(こういう方ばかりではないとは思いますが)。
※上記の本では男のものであった茶道が、女性、特に50代より上の女性たちを吸収していく様子を解明している。その理由の一つが、副題にもあるように「戦後の家族のあり方」に由来する、というのが本書の落ち着きどころのようなのだが(まだ途中なので、すみません)、簡単にいってしまうと「自我の確立あるいは自己実現を子育てが終わった時期に茶道に求める」ということのようだ。ほかにいろいろな習い事があるなかで、なぜ茶道なのか、という理由は、先述の「総合芸術」というキーワードに収斂される。茶道は建築・季節感・染織・焼き物などすべてが含まれ、子育てが終わった残りの人生をかけても勉強しきれないほどの間口も奥も深いものなのだというのだ。

※さらに「社中」というグループは、だいたい似たような境遇の人が集まり、たいへん居心地がいいというのも継続の理由の一つらしい。
※私が抱いた疑問の二つには直接の解答は得られないかもしれないが、何だかぼんやり見える気がする。
※2004年2月15日の日記で、「茶道人口は、ある流派においては高度経済成長期から増え続け、1990年をピークとして減少傾向ということだったが、和服の売り上げも同じ曲線を描いているのが納得できた。」と私は書いている。
※呉服屋に行こうが古着屋に行こうが、必ず「お茶ですか?」と尋ねられることが多く、今どき着物を着ている必然性はそこら辺にしかないのだなと感じ、いちいち否定するのが面倒くさいなと思っていたのだが、呉服業界は茶道が女性を吸収していった方法と類似の方法で生き延びてきたのだった。つまり、権威付け。正体不明の「作家」の「落款」がそのもっともわかりやすい例だろう。着付け教室のシステムも茶道そっくりである。試験・免状(許状)の制度である。権威と「認められたという証明書」が、自己確認に有効だったのだ。
※戦後の家族のあり方から発生した、子育て後になってから自己実現せねば、という志向の世代が高齢化し、次の世代がもはやそういう志向を持たなくなったとき、次はどういう形で生徒数を維持していくのだろうか。
※毎月一回の読書会でコメンテイターをお願いしていたスピノザの専門の先生は、男性だが茶の湯愛好家で、「茶道と茶の湯は違う」という論文を書いていらっしゃった。これからは権威や許状を必要としない、楽しいから続ける、という茶の湯人口が増えて欲しいものだ。本当の意味での「茶の心」を身につけた人が増えるのは麗しいことである。
※季節ごとの室礼に気遣い、客人のもてなしに気を配り、そういう人が増えれば、道幅いっぱいに歩く団体の一つが減って、ありがたいことだと思う。
※最後に念を押しますが、茶道を習っている人イコール迷惑な人という意味ではありませんので。
タグ:呉服屋

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