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抜け道~座敷牢にこだわりますが

【5月9日】和裁教室@上本町
きょうの課題:依然として羽織の袖。
先週の宿題:袖口に「隠し」を入れる・・・のを、今日教室でやった。
きょうの発案:袖底を縫う。その前に前後の振りがずれないように
       まち針で止めるのだが、毎回ここでうまくいかなくて
       絶望の淵に落とされる。今回もかなりびびって居た。
       そんな私のために先生が抜け道を考案してくださって、助かった。
       前後の振りをぴたっと合わせてから、
       しつけ糸で止めつけてしまい、動かないようにしてしまうのだ。
       着付けの時の仮紐みたいなものだな。
きょうの成果:振りの問題がクリアできたので、袖丸作りまで進んだ。
今後の課題:袖付け、襟付け。

※あまり自覚はなかったのだが、法事がよほど気になっていたらしく、すんだらガクッと来て、昨日は宿題もせずダメダメ女だった。会社の仕事を少し済ませたくらい。今日は心を入れ替えて銀行まわり、洗濯、荷造り、手紙書きなどをすませ、和裁教室へ。心配していた部分がクリアでき、何だかほっとした。来シーズンには充分間に合いそうだ。当たり前だが。

※思い出して追記
※先日書いた「その場しのぎの正当化」「その場しのぎの責任転嫁」について、その後さらにぼんやり考えていた。
※たまたまあの日見た映画が1974年のものだったので、地方と都会の差が如実に表れていて面白かったのだった。都会に出ている若者は流行のファッションを身につけ、若者、というだけの匿名の存在として消費生活を送っている一方、彼らの故郷では戦前から同じ住居、職業を続けている親が待っている。
※集団万引きのリーダーの女の子は、ウェスタンシャツにデニムのフレアースカート、髪型は狼カットで故郷に逃げ帰るのだが、待ち受けているのは旧世代の価値観だった。その価値観においては、犯罪を犯した我が子を、警察に突き出すか、自宅の座敷牢に監禁するかのどちらかしかなかった。
※そもそも座敷牢とはどういう意味合いがあったか、を考えてみると、世間的に見られてはマズイものを隔離しておく場所ではあったが、それは「マズイもの」を公的機関にゆだねることなく、人知れず「イエ」の中で処理(あるいは世話)しようとする場所であった。動機は「格好悪い」「外聞が悪い」ということだったと思うが、ある意味では「うちの中の問題はうちの中で解決する」という態度でもあったかもしれぬ。ただ、外聞ばかりを気にするあまり、「マズイもの」を虐待・迫害したり、適切な手当をしないで「なかったこと」にしてしまう悲劇が幾多も起こっていたことだろう。これは「監禁装置としての座敷牢」である。
※戦後の民主主義では、「イエ制度」から皆が自由になることが是とされ、人権侵害を引き起こすような座敷牢はなくなった。それはそれでよいことだったのだが、映画の女の子のように、いったん座敷牢に入れられ、そのあと警察に出頭する、という「緩衝地帯としての座敷牢」も、同時になくなってしまったともいえる。
※町作り・家作りにおいても、暗い場所、目的や意味の曖昧な空間はどんどん排除され、意味も目的も明確なものにどんどん変わっていった。路地や蔵や座敷や屋根裏や縁の下などもなくなっていく。
※座敷牢は極端な例であるけれども、「緩衝地帯」がなくなってしまった環境で生きるうち、人の心にも「隙間」とか「緩衝地帯」とか「ひとまず」とかいう空間が抜け落ちてしまったのではないだろうか。

※で、今の話になるが、我が子の万引きを通報した店が悪い、と責任転嫁する親は、もう心に余裕がないのだろうと思うのだ。我が子が裁かれるか否か、の二者択一しかなくて、悪いことをした我が子を「ひとまず」隔離する空間も時間はなく、意味や目的の明確な明るい空間しかない。その明るい場所に「犯罪を犯した我が子」は存在し得ない。その子を存在させるためには、その子を正当化する以外にない。また、親自身も迷ったり悩んだりする空間を持たないため、その場しのぎの「悪いのは誰か」という結論を拙速に出そうと焦ってしまうのではないだろうか。
※戦後民主主義家庭では「家族みんな仲良く」というセオリーがあるため、親は子を守らねばならないと思いこんでいて、かつて「外聞が悪い」とされたことをしでかした我が子をも「守らねばならない」と思いこむ。つじつまを合わせるために、我が子以外の犯人捜しをしてしまうのだろう。もしも今の家に座敷牢があったなら。座敷牢とまではいかなくとも、「ひとまず」頭を冷やす空間があったなら、「その場しのぎの正当化」はしないですむことだろう。

余談:
※この映画(バージンブルース)には、1974年ならではの新旧混在があちこちに見られ、時代風俗・価値観の変化などを感じることができた。中でも印象的だったのは、逃げ帰った不良娘が警察に突き出されるのをいやがって遁走するのを追いかけるお母さん(薬剤師)が、「うちの家名に泥を塗って!」と旧弊なことをいいながらも、追いかけたときに白衣の下から超ミニスカートが見えたこと。ファッションの流行はイエ制度の価値観とは全く別枠で浸透していたらしい。しかし1974年時点では、もうミニスカートの時代は終わっていたはずなので、少し遅れた流行のまま、母親はミニをはき続けていたようだ。そのあたりのギャップも面白い。
※都会ではATMで預金を下ろしているシーンがあり、そのお金で行った先には座敷牢がある、この落差が描かれているのが面白く思えたのだった。
※また、都会で居場所がなくなってしまった女の子が、やはり最後には故郷に戻ろうとするところも、まだ血縁・地縁が根付いていたのだなあと思う。今、同じ設定で映画を作るなら、彼女たちはきっと縁のない土地にフラフラとさまようことだろう。

※座敷牢に象徴される「根っこ」が薄れて、親の世代も根っこがなく、守るべきは楽しい(はずの)我が家だけ、となれば、それを守るために躍起になる。ところが「うちの問題はうちの中で解決する」ための空間がない。それをなんとかしようとすれば、はみ出したものを外に追い出すしかない。犯罪を犯したわが子を追い出すか、責任転嫁しかないのだが、前者は「守るべき存在」なのであり得ない。というわけで、うちの中で解決できなかった問題は、責任転嫁という形で解消される。

※「悪しきもの」として戦後追放されたものの中には、表には出ない、よい機能もあったように思えるのである。曖昧なもの、うす暗い場所、これらの機能を再度吟味してみる必要があるのではないだろうか。

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