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VANと着物

【6月22日】
※病気じゃないのだが体調不良で何も手につかず、仕方がないので今日の朝刊で面白そうだった婦人公論7/7号を読んでみた。
※大学の図書館になぜか置いてあったので、読んでみたら中身がドロドロで、一つ下の後輩とともにはまり、結婚前まではよく読んで、いかに嫁姑、むちゃくちゃな夫、とんでもない近隣住人などとのトラブルが、この世にあふれているのかをたっぷり予習させてもらったものだ。
※新装刊になってからこぎれいにライトに、ドロドロ感も薄れ、まったく読まなくなっていたのだが、今号を買ってみたのは「姜尚中」「堺雅人」「橋本治」「村上弘明」という、気になる人々の名前が載っていたのと「ヒゲの土肥先生がある日、女性に変わった」という記事も気になったためである。
※で、この号の中で面白かったのを少し引用。
「蓋棺録」という連載は、最近亡くなった人を偲んでの村松友視によるエッセイであるが、今号はVANの石津謙介氏についてであった。
「(大学生のファッションセンスが成熟していない頃に)若者文化とともに登場したのがVANというわけで、日本の学生たちにとって初めての若者らしいおしゃれの誕生といってよかった」ので、村松氏も青年時代をアイビーファッションで通したという。「何より、一般の大人の価値観とまったく別物というセンスが心地よかった」からだという。
※やがて時がたち、村松氏はアイビーから離れたが、個人的に石津氏と遭遇することもあり、何年か前、ある雑誌の対談にゲストとして石津氏を招く。「石津さんは、個性的な着物姿で登場された。そんな石津さんのスタイルは、日本の着物の素晴らしさを忘れるべきではないという警告をはらんでいるようだった。石津謙介という文化が、日本の伝統的な文化である着物に身をつつんでいるところに、大きい魅力と意味があるという気がした。」
※私はアイビーファッションの信奉者でもないし、石津氏の文章を真剣に読んだこともないのでいい加減なことを書くかもしれないが、アイビーファッションの提案・普及と、晩年の着物姿に、ふと思ったことがある。

(続き)
※VANの紙袋を小脇に抱えて歩く みゆき族;が現れたのが1963~64年頃。6月7日の日記で取り上げた「月曜日のユカ」が1964年。与えられた価値観に従おうとしながらも、実はどうもうまくいかない、そんな若者が多く、それはファッションの面でも同様で、何か新しい規範のようなものを希求していたのではなかったか。そこに「ある一つの明確なテイストを持った一連の服」が現れ、若者が吸い寄せられたのだろう。
※ただ、ここで私が思うに、もともと若者のファッションというのは、旧制高校生的なものならば、戦前には存在したのだ。白絣に袴、朴歯下駄といったものである。しかしこれは、特権階級的な誇りの含まれた、ごく一部の人々に許されたものでしかなかった。階級・職業・立場で、着るものが決まってしまう時代のあと、1960年代の若者たちのように、ただ「年の若い男」という存在が登場した。VAN以前には、学生服から背広に変わるだけの衣裳の変更しかなかったが、その間に着るものが初めて提示されたのだろうと思う。職業・立場・階級とは関係なく、ただ「若い男」というだけの不特定多数を包含しうる「男のおしゃれ」というものが生まれたということか。
※こうしてアメリカ文化の匂いのするファッションを提供した石津氏が、晩年に着物を着用していたという事実が、私には示唆的に感じられたのだ。
※結局、「規範」ということに帰結するのではないか。VAN以前には戦前の価値観がことごとく否定され放逐され、VAN登場以前は「着るものの規範」が崩壊していたのではなかったか。その後ありとあらゆる洋服が氾濫したが、その結果多くの人のセンスが磨かれたのではなく、多すぎる情報の中で右往左往して「何でもあり」という、やはり「着るものの規範」の崩壊が進行しただけだったと、私には思えるのだ。
※石津氏の年代ならば、もともと着物の文化の中で育った人であろう。そのベースがあって、VANが生み出された。その根っこの部分を、もう一度味わい直していたのではないかという気がする。男の着物って洋服に比べると、一見差がわかりにくいものだし、一定の規範がある。だが、それだけに工夫のしがい、楽しみ方があるということを再発見したのじゃないだろうか。


※規範というと、なんだか窮屈に思えるけれど、堅苦しい意味ではなくて、ただ自分の着るものにポリシーを持つとか、自分で決定する、自分で世話をする、そういう「衣料に対する主体性」みたいなものを、私はイメージしている。
※主体性、といっても「俺は俺の好きなものを着る!」という排他的かつ自分勝手な独善性ではない。アイビーファッションが、東海岸のお育ちのいい大学生をお手本にしたものなら、もともと大人社会の規範も意識しつつ、若者らしさを出すという、二つの規範をクリアしたおしゃれだったと思う。
※石津氏は、着物にそういうおしゃれの可能性を見いだしていたのじゃないか。周囲に不快感を与えず、個人としても楽しめる、工夫の余地のある衣料として。
※リンクを張った記事に石津氏の思い出話が掲載されていて、それもまたこの説を裏付けるような気がする。みゆき族が銀座にたまりだして、近隣から苦情が来たとき、みゆき族を一カ所に集めて、「アイビーを一時の流行で終わらせずに、いつまでも大切に育てたい。だから、意味もなく銀座に集まるのはやめてほしい」と説得したという。
※着ることは、個人的かつ社会的な行動であり、どちらの規範にも沿ったものであるのが、大人としてのおしゃれの基本的なことだし、ファッションは提供されてくるものを待って受け取るだけでなく、育てていくものだ、という考えが当時からあったように思う。育てるのは提供者であるメーカーだけではなく、着る人たちでもあったから、一時的にわき出て消えるような行動は取って欲しくない、ということだったのだろう。みゆき族が銀座から消えたあとに、アイビーファッションが全国に広がっていったということは、平凡パンチなどのメディアも寄与しただろうが、「ある地域の特殊な人たちが着ているもの」という偏見が、みゆき族の消失とともに消えたからではないかと思う。
※で、もしも着物着用者を増やしていこうとするなら、デモンストレーションみたいな行動を大勢の着物姿でやると「ある地域の特殊な人たちが着ているもの」と思われて逆効果じゃないかと思うのだ。それよりも、着物着用者の一人一人が、自分の地域で自分のできる範囲で、着続けることが本当の着物普及活動になるだろう。
タグ:ダウン 雑誌
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