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「他人から見た自分」

【7月3日】共時性っていうのか
※今日の朝刊の投稿欄で以下のような投書が。

●見た目で判断 とても悲しい (短大生・18才・前橋市)
 私の親は「普通の格好をしている人にはいい人が多い。変な格好をしている人には危ない人が多い」と見た目で判断して言うのです。そのくせ私には「人は見かけではない」と言います。言うことが矛盾していると思います。
 私は確かに銀色の靴など変わったファッションもします。でも、見た目だけで決められたくありません。勉強もきちんとやるし、やるべきことは必ずやります。若者はマナーがなってないと批判されますが、ルールもきちんと守ります。
 私はおしゃれするのが大好きなだけです。おしゃれは私の生きがいです。そんな生きがいを奪わないでください。
 みんなと同じように好きな格好がしたいだけなのに、なぜ私の親は反対するのかとても不思議です。そして私の友達までも否定するので腹が立ちます。きちんと中身を見てほしいです。
 両親は私のことを心配していろいろ言うのだと思います。格好でしか人を見てもらえないなら、とても悲しいことだと思います。そういう人は、心が狭いと思います。そんな心が狭い人が増えないことを私は願っています。

※18才の娘さんも、鬱憤がたまって投書したんだなあ、ま、挫けずがんばれ、と思った。それから、親の欺瞞にようやく気がついたのだな、と思った。本音と建て前の間で、混乱しちゃったのですね。人間というものは往々にしてこういう言動をするものだ、と認識して、人と違うことをする以上は、やはりそれなりの覚悟というものがいると思ってくれればよかったのにな。普通の人と同じことをしていても、外見で異なってしまうときには、その効果は半分くらいになると覚悟して、人の二倍はやらないと認めてはもらえないものだ。どうしてもしたいことを貫くには、それくらいの努力はいるだろう。あとは時間をかけるか、である。

※商店街の中古レコード屋に、ものすごく髪の長いお兄さんがいた。我が町では異色の存在で、ひょっとしたらロンドンブーツも履いていたかもしれない。最初はなんとなく遠巻きにされていたが、だんだん、「あの人、いい人や、毛ぇ長いけど」という認識になった。娘さんも、「あの子いい子や、靴銀色やけど」と思ってもらえるまで時間をかけなくちゃならないだろう。


※あと気になったのは「みんなと同じように」というくだりである。「何で私ばっかりスパイラル」に入ってしまったのかな。「生きがいを奪わないで」というあたりにも被害者意識がちょっと見え隠れする。よその親はよその親、自分の親はそういう人たちなんだから、それに対応していかなくちゃならないだろう。自分を心配して言ってくれているという気持ちもあるようなので、親を信頼したいという気持ちもまだあって、親は欺瞞に満ちた存在であるという結論にも至れなくて、最終的には「心の狭い人が増えなければいいな」という一般論で終わっている。

※親も言葉が足らなかったのかもしれない。「私たちは、外見で人を判断するようなことはしないようにするけれど、世間はそういう人ばかりではない、娘がおかしな格好をして、おかしな人が近づいて来るのじゃないかと心配だ」とでも言ってあげれば、投書にまでは至らなかったのかもしれない。

※もうひとつ考えられるのは、本人の「おしゃれ」というのが、単に「みんなと同じような格好がしたい」というだけで、しかもセンスが悪い場合。銀色の靴はいてもいいと思うんだけど、それがトータルで納得できる格好になっているのかどうか。普通、あんまり見かけない格好をしている人でも、その人なりに貫くものが見て取れたら、私だったら納得してしまう。私は同じような格好はしないけれど、認めちゃう。そういう説得力を持つに至るほどの「おしゃれ」にまでは到達していないだけなのかもしれない。
※ちょうどお友達から、アメリカの哲学者Eric Hofferの以下の文章を教えてもらったところで、なんか絡めて考えてしまった。

●「人間に最も必要なのは食料と住居である」と唱える学者は、人間のことをよく
知らないのだろう。我々の最も粘り強く、また華々しい努力というものは、自分
の身を守ることよりも、「他人から見た自分」という、想像上の概念を築き上げ
ることに費やされる。他人に褒められたいという気持ちは、食料や住居への欲望
よりも切実なものである。




※この娘さん、「自分の好きなファッションを、もっとも身近にいる他人(他者)である親も認めてくれてもいいはずだ」という前提があったのじゃないか、それがそもそもの躓きだったのじゃないかと思う。それどころか「褒めてもらえる」くらいのことも感じていたのかな。変わったファッションを選択した時点で、それに対する抵抗は想定すべきだし、そんなものに負けるくらいの選択ならしない方がいい。

※この娘さんは今まさにいい経験をしているのだ。たまたま「心の狭い親」に当たって不運、世間にそういう人が多くて私を不幸にしないでほしい、という考えをするのではなく、人は見かけで判断するし、親は欺瞞に満ちている。自分は「他人から見た自分」を意識している。その中で自分自身の好きなようにするにはどうするか、それを考えるきっかけにしてもらいたいものだ。

※その結果、間違った方向に行くとすれば、「好きな格好をしている自分を褒めてくれる人だけの社会を構成する、もしくはそういう社会に参加する」という選択だ。そうではなく、褒めてもくれない人々の中で、自分自身を殺さずいかに生き延びるか、工夫してもらいたい。そもそも「褒めてもらえなくて当然」というところに立ち戻れば、かなり問題は解決するのだが。「お父さんお母さんには不興を買っておりまして申し訳ありませんが、私はこういう人間ですので、こうさせていただきます。褒めてくれとは言いませんし、この格好のせいで何か間違いがあった場合は、すべて私の責任ですので」くらいのことがいえればなあ。未成年だしなあ。



※前世紀の終わりなんかに着物着ていたら、「ちょっとオカシイ・・・」と遠巻きにされたものだ。だけどしょうがないじゃないか、そういう社会の中であえて着ているんだから。しかし、時間をかけて、やるべきことをやっていれば「あの人まあまあ普通の人やん、変な着物着てるけど」くらいの認識にはなる。そんな努力したくないのなら、変わった格好なんかしなければいい。

※それに、こういう体験をしていれば、自分は人を見かけで判断しないようにするようにもなる。というより、常識的な格好をしていようがそうでなかろうが、判断基準は「センスの良し悪し」か「心意気の有無」になる。つまり奇を衒って注目を集めたいだけの格好なのか、何にも考えてなくて適当に着ているだけなのか、そういうことが見えてくる。または「優しい人」「親切な人」「意地悪な人」などの、それこそ「内面」についての方がメインになるだろう。

※着るということは、自分自身についても、他者との関係性についても、あれこれ考えさせてくれる、いい素材である。といったのは鷲田清一先生です。チャンチャン。
タグ:新聞
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