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「和」の底流

【7月29日】お引き取り@クリーニング屋さん
きょうのお引き取り:
1,絽青に白で波とカモメ小紋。古着屋で5000円。
  袖丈が長かったので自力で袖丈つめしたのだが、
  時間切れで袖丸を付けるところまで行ってなかったのに
  洗いに出してしまった。ということを、引き取ってから気がついた。
2,水色に濃い水色ででっかい破れ麻の葉、薄物。シャリシャリした生地。
  これが小千谷紬というものだろうか???古着屋で3000円。

※いずれも工場仕上げで2500円+税。昨日の洗い張り屋さんの説だと、まずクレンジングオイルで化粧を落としただけの状態で、本当にきれいにしようとするなら、やはり汗抜きか洗い張りすべきところである。しかし先立つものの問題もあるので、ひとまず揮発洗いを。

※帰りに本屋で「婦人公論」を見る。表紙がオリビア・ハッセー。マザー・テレサ役をするそうだ。布施明に注目し出すと、ここしばらく日本のメディアに登場しなかったオリビア・ハッセーも登場する。不思議だ。

※「AERA in ROCK」はボウイの記事目当てで買う。グラム・ロックって、グラマラスなロックのことだったのか・・・。そういう常識すら知らずに、たまたま手にとって聴いてみたアルバムが私の体質にあっていたため、ずっと聴くことになったのだが、その一曲目が日本語で始まっていた(「It's No Game」という曲は「シルエットや影が革命を見ている・・・」という日本語の女性ナレーションで始まるのだ)というのも、何か運命を感じた。が、そもそもボウイが日本好きだったのだから、普通のロックファンには当然のことだったのだろう。



※「Jap Girl」「SAKE」という単語が歌の中に出てくるし、ボウイの別宅が京都にあるとかいう話もあったのだが、自分の好きなアーチストが好きな日本、というのを私は知ろうとしなかったな、といまでは思う。というか、一回西欧のフィルターを通してエキゾチックなものとして認められた日本を、自分も異国人のように見ても仕方がないし、見ることはできないと感じていたせいか。

※「和」でくくられる、日本人ガイジンから見たエキゾチックな日本というのは、なんとなく「上澄み」だけとらえているような気がする。日本にあったもの、今あるもの、それぞれいいところもあれば、うっとうしいところもあって、諸手を挙げて「ニッポン、和、全部オッケー!」みたいな簡単なものじゃないだろう。やだなあ、と多くの人が感じていたから失われていったものもあり、取っておくべきだったのに面倒くさいから失われたいいものもあっただろう。かと思うと、戦時中にもんぺが流布したのと同様の勢いで、同じメイク・同じファッションの人があっという間に増殖するあたりは、実は根本的に変わっていないのかもしれない。前髪斜めおろし、ミディアムレングスの茶髪、目のまわりはマスカラで真っ黒、下着みたいな服を重ね着して、へそが出て、爪か携帯電話にラインストーンが貼ってある女の子の増殖という現象こそが「和」「ニッポン」の底流なのかもしれない。
タグ:お手入れ

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