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自転車操業

【10月24日】
※あれこれあって、また和裁教室をお休みしてしまった・・・。木曜日には行こう。

※気になっていた悉皆屋さんへ借金返済に行く。顔を見るなり、「出来てんで」とお仕立物2点と汗抜き1点が積まれる。いや実は借金があるのだけど・・・、というと、すっかり忘れていた風で、いわなきゃよかったかなと思いつつも、まず残っていた分をお支払い。これで一瞬「キレイな体」になったが、続いて仕上がりもののお支払いで唸る。ナンボか置いていき、ということで3分の一だけ払ってお持ち帰り。

きょうのお引き取り:
1,「王将」銘仙。

※シミシミ品をオークションで落札し、洗い張りしてもシミが取れず、自分でシミ隠し塗り塗りを施し仕立ててもらったもの。これは「将棋の駒」鼻緒の下駄と合わせて「坂田三吉セット」となる予定なのだが、その前に坂田三吉についての本を読まなければならない。村田英雄の歌などで描かれる像とはかなり違う印象の人だったらしい。いつ着用できるのか、未定。

2,秋の派手派手小紋。

※錦紗に紅葉と滝(か波)をびっしり染めた派手な小紋の洗い張りをオークションで落札。八掛は近所のデパートの呉服売り場で1200円くらいの、胴裏はありもの(何か解いたときに出たものかな)という「出ず入らず」の組合せで仕立ててもらった。紅葉の季節に間に合わせてくれと言ったので、大急ぎで仕上げてくださったのに、すぐに払えずごめんなさい。2枚とも仕立て代18000円也。

※まだ残金があるにもかかわらず、悉皆屋の奥さんが「問屋で買ってきた、安いものだけど・・・」とストッキングを下さった。そこら中でもらってばかりである。何か、ものをあげなくては、と思わせる「気の毒感」が私に漂っているのだろうか。

※なんかまだ紙製着せかえ人形に引っかかっていて、少しあれこれ考えた。紙製紙人形は戦前からの流れと戦後の高度経済成長期以降では、趣や意味が異なっているのではないかと感じてきたのだ。

※きいち系背面あり着せかえは、とにかく生活道具は多いわ、両親や妹弟など登場人物は多いわ、すべてを切り取って組み立てたら家財道具と家族全員が揃うようなアイテムで、あれは人形遊びと言うよりも紙製ジオラマセットだったようだ。紙という二次元のもので三次元を組み立てようとするものだった。

※絵ノートの着せかえ人形は基本的に少女漫画雑誌の付録の流れで、漫画のヒロインの着せかえ人形を真似するように、絵ノートの表紙の少女の人形と服がノートの付録としてついていた。表紙の絵も少女漫画家がそのままスライドして描いている。少女漫画の付録も絵ノートの少女も、家族や家財道具が描かれることはなかった。ジオラマを作る志向はなく、平面上での衣服交換ごっことなっていた。

※家財道具が描かれているものは、戦後の高度経済成長と技術革新で、すぐに古くさく時代遅れになってしまった。昭和40年代に、以前の版のままで増刷していた「きいち系」の家財道具は、明らかに時代錯誤だった。絵ノートの方は、そういう「すぐに古びる」ことを避けるために家財道具を描かなくなったのだろうか。

※家財道具以外に、絵ノートの少女には家族が存在しない。バックグラウンドがわからない、ただ目がキラキラしているだけの少女。しかも背面がない。二次元のままで人形が成立したのだ。

※少女漫画の隆盛が、読者であり着せかえで遊ぶ遊び手でもある少女たちに、平面でも立体を想像させるベースを作ったからこそ、背面のない着せかえ人形でも遊び道具として成立したのだろう。共通の想像力を背景に持った「見せかけ」ごっこの成立。

※それとともに、なんだか「薄っぺら」「厚みのない」「見かけ倒しの」「見せかけの」傾向が、あらゆる方面で浸透、拡散していったようにも思う。それは他の分野で進行していた傾向が、たまたま着せかえ人形にも波及したのかも知れないが、いずれにしてもほぼ同時進行だったように思われる。

※例えば、建て売り住宅の背面。正面は小さな築庭だとか軒だとか庇だとか門だとか、すべてがミニサイズではあったが、できる限り邸宅の要素を盛り込む努力がなされた。それに引き替え背面のおざなりなこと。裏が田んぼだったりすると、のっぺらぼうの家が何軒も並んでいるようだった。言っておくが、私は建て売り住宅を購入した人に何か言いたいのではなく、供給した側の「裏は見えないからいいや」的手抜き意識を問題にしている。

※例えば、化繊合繊の開発。決まり文句は「絹と見分けがつきません」。

※例えば、タフテッド・カーペット。いわゆる絨毯(ウィルトン・カーペット)というのは織物で、ジュート生地を土台に毛を植えつけていくのだが、タフテッド・カーペットというのは毛束を接着してあるだけなのだ。裏を見ればすぐにわかるが、敷いてしまえばわからない。ただし長期使用によって、その良し悪しは明確になる。ウィルトン・カーペットは耐久消耗財として長く使用できるが、消耗品としてのタフテッド・カーペットは短期間でゴミとなり、ある時期から廃棄物としてのカーペットの増加が業界で問題になったりもした。

※つまり、高度成長期以降、みんなが中流意識を持つためには、ミニサイズではあるが、まがい物ではあるが、それでも「一見本物風」のものを大量に生産する必要があった。逆に言えば「・・・のようなもの」が大量に安価で入手できたから中流意識を持つことができたのだと思う。

※絵ノートの着せかえ人形、建て売り住宅、絹に似せた化繊合繊、タフテッド・カーペット、それらすべてに共通するのは「裏を見せたら正体がばれる」こと。逆に言えば、裏を見せなければばれない。

※なんだか、こういうものに周囲を囲まれて以来、見かけだけ体裁を取り繕っておけば世間を渡っていける、そういう風潮が強まったような気がするのだ。ロードショウの映画にたくさんの人が殺到するけれど、「見た見た」くらいで、ちゃんとした感想を聞けた覚えもないし、新しい情報についての話題が出たとき「あー、知ってる、知ってる」で話が終わってしまうとか、そのあとの発展がないまま、次の新しいものに移っていくような、深まりのなさ。

※まがい物から出発して、本物に達する道があるとすれば、徹底して裏を見せないことしかないだろう。しかし、よほどの努力をしなければ、ちょろっと裏が見えてバレバレになる。普通の人はばれるだろう。ばれないですむのは真の詐欺師くらいである。そこまで行けばある意味職人で、スゴイかもしれないし、いつの間にか本物になっているはずだ。といっても本物の詐欺師かな。

※思い起こせば見せかけの時代が始まった頃、裏の空き地にこっそりゴミを捨てていく人が増えた。なーんか、相関関係があるように思うのだが。「ばれなければいい」という意識がそのまま続いて、今に至っているんだろうなあ。

※自転車操業で四苦八苦しているしみったれの私も、中古のジノリのお皿を5月に買って、やっぱり高いなりの理由があるんだわ、と納得した。お皿の深さが絶妙、朝顔の柄が和洋中どれでもオッケー、モヤシ炒めさえ上等に見えるのだ。お金がないならないなりに、いいものを使ってみる機会は中古市場にあるんだから、安い新品を買うよりも、元々高かったものを体験した方がいいなあと思った。

※紙製着せかえ人形については、まだ別の角度から説を展開する予定。どうでもいいことになんでこんなに打ち込むのか。そんなヒマがあるなら運針でもしろよ、とお思いでしょう。私もです。
タグ:お手入れ
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