SSブログ

何も言えなくて・・・冬

【11月28日】 お食事@近所

写真倉庫→http://sanpokimono.sakura.ne.jp/2009_11_28p.html

きょうの着物:葡萄茶地に金銀で菊の縫い取り小紋。
きょうの帯:楳図かずお八寸名古屋帯。オークションで5000円。
きょうの羽織:臙脂と紺の縦縞綸子に枝花の染め。
きょうの長襦袢:錦紗牡百花繚乱染め。
きょうの帯揚げ:芥子色紋綸子。
きょうの帯締め:黄色無地平組。
きょうの足袋:白地に赤茶の麻の葉紋。
きょうの下駄:鎌倉彫竹文様こっぽり台に緑地麻の葉紋鼻緒。

※「うっかり」とか「ボケ」というのは伝染するのだろうか。ここ数年来、ボケてうっかり、が多くてうんざりしていたが、先日はダスキンさんがビックリのボケをかましてくれた。換気扇のフィルター交換にくるのにフィルターを持ってくるのを忘れたのだ。まだ若くて聡明な人なので、まさかの椿事だ。私はボケかましの大先輩であるので動揺せず、「こういうことは、あるんです。」と現実を肯定する。若かりし頃に海水浴場に水着を忘れていった実績があるので、こんなことはたいしたことではない。

※というわけで、伝染するほどボケまくりの今日この頃、数日前にアップした日記のリンクが不備だったのに、メールフォームでお知らせいただくまで全然気づいておらず、お手間をおかけいたしました。ここで御礼申し上げます。

※もう一つボケがあって、この前京都で嵐電に乗ったときに、おもしろいアナウンスがあったので書いておこうと思っていたのにすっかり抜けていた。駅が近づくと流れる宣伝アナウンスのなかに、「コツコツ丈夫な骨作り ○○整骨院」というのがあって、コツコツは骨骨なんだなーと感心していたのに、なぜすっかり抜けてしまうんだろうか。

※今日は長らくご無沙汰していた幼なじみと久しぶりのお食事会。なんかばたばたしていたので、手近にあった帯をチョイスしたのだったが、これはごく最近ヤフオクで落札したもの。おそらく長い間落札されずにぐるぐる回っていたのじゃないかと思う。というのも、なんだか変な柄なのだ。色がいっぱい入っていて、それは綺麗なはずなのに、柄が入り組んでいて妙な状態なのだ。綺麗にしようとして、どこかで階段を踏み外してしまったような・・・。おお、これは楳図テイスト・・・と、まったく競合なしに入手した。たぶん誰もほしがらないだろう。

※楳図かずおの帯を締めていったので、この前一気読みした「14歳」の話をすると、幼なじみの顔がゆがんだ。聞けば、楳図はダメ、トラウマがある、コワイ、というのだ。いったいどの時点で、どの作品でトラウマになったのか追求してみると、漂流教室かな、まことちゃんかな、と「思い出すのもコワイので曖昧」な答えしか返ってこない。女の子たちは早い時期に「タマミ」で衝撃を受けて免疫ができているから、その後の作品でびびる度合いは軽減されたと思うが、それを通過せずに漂流教室を読んだら、これくらい影響するのか、と納得した。私もコワイコワイと思いながら、それが「好き」に反転したわけだが、それは幼い頃から近しい位置にあったからだろう。

※そんなわけで「この帯、楳図なの-」と告げることができず、沈黙の歓待。・・・というのは、その後の話が「かわぐちかいじ」に移行したからである。漫画の(しかも相当前の)話ばかりしていたわけでもなく、勤務先の状況、その流れからどうしようもない上司の話などにもなる。その人の振る舞いが「困った人」なのだ。悪いことは人のせい、手柄は自分のもの、というタイプである。世に「困った人」関連の新書はいっぱい出ていて、読みながら、部分的には自分にも当てはまるのではないか?とちょっと赤面しつつ読んだりしている。問題は、その本の内容にほぼ当てはまるタイプの人が、そういう本を読まない、もしくは読んでも自分に当てはまると気づかないということではないかということだ。これが本日の二人の合意。

※話はさかのぼるのだが、今年前半、非常勤講師に行ったクラスに、勘がよくて要領もいいが、基本的なことができていない生徒さんがいて、そのひとつに敬語が使えないという特徴があって、このまま社会に出たら本人も困るだろうし、周囲にも迷惑だろうと思い、レポート採点の返却のついでに「ちゃんと話すための敬語の本](http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480687012/)というのを送った。読んでくれるかどうかわからなかったし、越権行為かもしれないと思ったが、担任の先生は好意的に受け止めてくださって、ひとまず安堵していた。

※およそ一ヶ月後、追試がわりの罰ゲームレポートと一緒に、感想文が送られてきた。ああ、ちゃんと読んでくれたんだと思って喜び、内容を読んでみた。すると、自分を客観的にとらえ、なぜ敬語を使わないのかを分析していた。本人曰く、自分に近しい(好ましい)と感じている大人(先生含む)には「なあ~○○センセ」と声をかけてしまう傾向があるのだそうだ。あんまり好きではない先生には敬語なんだそうだ。ということは、私は好かれていたのか。しかし、それは自分だけのルールだから、周囲に理解されるのは難しかろう。それはともかく、これ読んでみて、と渡されて、自分に批判的な内容であっても、自らを省みて、他者から見た自分の姿を認め、それがなぜそうなってしまうのかをよく考え、しかも最後に感謝の意を表明してくれていて、ああ、この人は指導者と本人の心がけでまだまだ伸びる人だと確信したのであった。

※話がそれてしまったようだが、この生徒さんは18歳前後。心や脳がまだ柔らかいから素直に受け止められたのだろうか。いや、私の若い頃を思い返すと、大人に逆らうことばかりに躍起になっていて、そんなに柔軟ではなかったように思う。そして、前述の困った人は、さらに心も脳も硬くなっていて、さらに受け入れ難い自己像を認めることはないだろう。18歳の子にできたことができないのは情けない。アンチエイジング、いつまでも若々しく、なんて言葉が横行する今日この頃だが、見た目や肉体のことではなく、心の持ち方・使い方の面で、柔らかい状態を保つ努力が必要だろう。しかしおそらく、「困った人」というのは若い頃からずっと自らを客観視することなく来てしまったのだろうから、今さら無理かもしれない。鉄は熱いうちに打て、という。早い時期に誰かが叱ってくれたら、ああはならなかったのかも。早いうちに、タマミを読んでいれば、楳図コワイ、読めない、にはならなかったのに。返す返すも残念なことである。
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。