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年末のご挨拶

【12月31日】寒波襲来

※長らくのご無沙汰でございました。この12月は、家人の都合で生活時間が昼夜転倒、夜討ち朝駆け、という状態に巻き込まれ、日中もなんだかぼーっとしてしまうし力が入らないし、で、だんだん気分も落ち込んで来て、日記も書けずにおりました。言葉が出なくなってしまうような倦怠感でした。

※更年期障害ってこういうのなのか?と思いつつ、暮れにつきもののタスクをこなして、一息つけるかなと思った矢先、身内が入院。それに伴い用事が増え、さらに人間関係の確執も増大、疲労も増大。というわけで、ついに大晦日を迎えてしまいました。

※もしも、ひょっとしてご心配くださっていた奇特なお方がいらっしゃいましたら、どうぞご安堵くださいませ。本人は至って普通、ただ周囲が何かとあって、それに巻き込まれているだけです。私は私のすべきことを淡々とこなして行くのみ、と腹をくくっております。

※私は波乱の年末年始となりましたが、皆様には穏やかな、幸せな一年となりますよう、2010年、平成22年の安寧をお祈りしています。

※それでは皆様、良いお年を・・・。
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アンハッピープライス

【12月13日】

※あっという間に日がたってしまった。この時期、ボーナスを受け取る人はちょっとうれしいと思うけれど、支給する方としては色々たいへんだ。業績があまり良くないけれどなるべく出したい、が、あまり出せない。頭の痛い問題をなんとかクリアしたら、気力が萎えてしまったような。

※そんな中でも着物雑誌が発売され、ざっと目を通したりもしていた。なんだかなーと思ったのが「美しいキモノ」の別冊「きものセミオーダーガイド」掲載の商品群。「ハッピープライスで」という謳い文句通り、10万円前後、5万円前後、一番安いのは4万円。キモノとして着るためには、これに仕立代や周辺機器代が加算される。合算すると+4万円くらいだろうから(少なく見積もっても)、20万弱~8万円強、というラインナップだ。それがどうも、垢抜けないのである。欲しいと思えるものがほとんどないのだ。私は、もともと現行品にはあまり食指が動かない傾向があるが、それでもたまに「いいなァ」というのもある。この「ハッピープライス」品には、一点も食指が動かない(48000円の小紋が、どう見ても「ポリですか?」というものだったのでビックリした)。

※昨年のリーマンショック以来の不景気、デフレ競争、という流れの中で、この企画は「お手頃なお値段でおあつらえ」というものなのだろうが、労力や費用に対する効果がどうも低すぎるような気がした。もちろん、いいなァと思うものは80万くらいしたりもするのだが、その4分の1の費用で4分の1の喜びがあるかといえば、16分の1くらいの感じだ。どこかに「妥協しました」感が漂うのだ。妥協するんだったら、もうリサイクルでいいんじゃないか。ああ、でもそうすると新品が売れなくなって、京染めの職人さんが困るんだ。

※じゃあ、リサイクルでは見つからないよね、というようなものを出せばいいのじゃないだろうか。染めてしまって問屋さんに流すものだったら、リスクの少ない、多くの人が好みそうな色柄にすればいいと思うが、セミオーダーなんだから受注生産、リスクは少ない。となると、価格を抑えるための少ない色数や高度な技を使わない方法で、気の利いた柄を提案すればいいと思う。たとえばワイングラスとか馬とカッパとか猿とかウマヅラハギとか、まあ何でもいいからおもしろいもの。それなのに、なぜか「お花」「縞」「格子」がメイン。これならリサイクル屋で充分見つかる。売る気あるのかなあ?

※ひょっとしたらハッピープライスというのは、消費者にとってのハッピーではなくて、京染め職人さんたちにとってかもしれない。ありものの型で染めたものを雑誌で宣伝して注文をとれれば、宣伝費だけの出費で利益が出る。新たなデザインを創出して型も作っていては利益が出ないだろう。とはいえ、おもしろいものが欲しい、リサイクルでも何でもいいからというような考えは私だけかもしれず、あの雑誌の読者の多くは何が何でも新品でなきゃ、という層なのかもしれぬ。

※でもたとえば、シミなしの、4320円で買った古着を仕立て直すと、3万円弱ですむ。それを、最低でも8万円強の「セミオーダーきもの」と並べたとき、ほとんど遜色ないと思う。だったら、やっぱりセミオーダーは違うわねえ、という印象を与えられるようなものにしないと、まじめにオーダーしたお客様に申し訳ないだろう。たとえが「4320円」なのは、ちょうど古着屋で買った縮緬小紋がハッピープライスものと似た感じだったので具体的な数字になったのだが、それが2万円であったとしても、胴裏・八掛を取り替えでも、ハッピープライスものよりも安い。もう一つの懸念は生地がわからないことだ。表示価格は向こうが指定する生地に染めた場合のもの。もしもう少しいい生地に変更すればさらに増額となる。不景気な中で売ろうと思うのだったら、これなら染めてもらいたい!と思わせるような色柄を出すべきだろう。京染め職人さんの方が、もう少し工夫や努力が必要なのじゃないだろうか。

※消費者もハッピー、職人さんもハッピー、になってこそ本当のハッピープライス。現状では原価の安いものをそこそこの値段で売って、職人さんの仕事を増やそうキャンペーンみたいで、消費者にとっては、オーダーするほどのものでもない着物を手に入れることになるだけで、アンハッピープライスな気がする。
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傭兵

【12月6日】  http://sanpokimono.sakura.ne.jp/2009_12_06p.html

買い出し?@天六~南森町

きょうの着物:茶に青赤黄白黒の縞お召。
きょうの帯:黒地にいぶした赤系の紋織り名古屋帯。
きょうの羽織:黄に黒で破れ亀甲、梅紋の中に花の染め、紋綸子。なぜか購入記録が残っていないが
        1000円未満で買って、丸洗いしておいたもの。
きょうの長襦袢:青地に漆糸縫い取り錦紗。
きょうの帯揚げ:瑠璃色無地縮緬。
きょうの帯締め:瑠璃色単色丸組。
きょうの足袋:白地に芥子色で麻の葉紋。
きょうの下駄:桐白木に笹竹彫り右近台にインクブルーに白で麻の葉紋鼻緒。

※前回履き物屋さんに行ったときに、新作台があり、それがなんだかおいしそうに感じられ、気になっていた。一応値段だけ聞いておいてじっくり検討し、迎春用として購入を決め、本日決行。さてどの鼻緒にしようかとあれこれ迷うが、最初に「なんだか遠目には切りビロードのように見える」のがあり、まずそれを乗せてみる。悪くない。しかしまだ、もっといいのがあるかもしれないと店中徘徊して次々に乗せてみる。ところがやっぱり、最初のがもっともいい。もう一回乗せてみる。すると、赤い鼻緒がクランベリーソースのように見えて、とてもおいしそうになった。決定。お支払いをしたら、商店街の年末催事でその場でキャッシュバックスピードくじを二枚もらえた。私はこういうのはまったく当たらなくて、いつも最低賞なのだ。じゃ、100円かな、といいつつ開いてみると・・・。なんと1000円!!!!ここ数年来、いや数十年来こういうことはなかったので大喜び。2枚目も開いてみる。・・・えええええええーっ、また1000円だ!

※商店街から各店に、くじを配布するときに偏りがあって、1000円の当たりが固まっていたんじゃないだろうか、という話になる。でなければ、私に連続して当たるはずがない。ということは、次のお客さんも1000円のはずだ、と見守っていたら、あれれ、100円でした。不思議なことに2枚、たまたま連続していたらしい。おかげでお買い上げ金額は2000円引きとなり、とっても助かった。その後、いつものように喫茶店でミックスジュースをごちそうしてもらってご主人とおしゃべり。体調もずいぶんよくなって、前向きな話が増えてきてうれしい。

※商店街をぶらぶら南下する。空き店舗に期間限定で漆器を売っているお店があって、そういえばそろそろ汁椀も交換時期かな、と思い見せてもらう。400円とか800円で、投げ売り状態。聞けばこのあたりは一般のお店の価格帯が安くて、いつもの値段では売れないので下げたそうだ。一つ一つ刳り抜いて作ってあることを示すために、縦に半分に割って断面を見せている。さらに、漆だから大丈夫、と炎を近づける。燃えない、煤もつかない。樹脂が塗ってあれば真っ白になるのだそうだ。

※デモンストレーション付きに感動して(御しやすい客)、普段の汁椀、大きめの豚汁とか粕汁用の汁椀を買う。ついでに、といっちゃ何だが、鎌倉彫のお盆も買う。アメリカ人の友人へクリスマスプレゼントにするのだ。さて、ここで私の荷物は「下駄の箱」「お盆の箱」「お椀4つ」となり、さらに履物屋さんに預けてあった図録も加わり、たいへんな大きさとなる。四角いものだけであれば何とかなったのだが、お椀が加わったおかげで立体的になり、まとまりがつかない。それを下げてヨタヨタと古着屋の競り市を冷やかしに行く。もう終わり近くだったので、危険はないだろうと踏んだのだ。

※実際、食指の動いたのは1点だけで、それも希望者が重複したため、じゃんけんで負けて、手ぶらで脱出できた。ここの店長さんは体の調子が悪く、11月に退職されたとかで、競り市は経験の浅そうな新人さんに交代。説明の内容に突っ込みどころがあったが、一番ビックリしたのは「着ないからわかりませんけど」というコメント。売る人がそれを言ってはいけないのでは。まあ、だんだん慣れて、洗練されてくるのだろう。

※大荷物と競り市で疲労し、喫茶ビクターに行こう!と思い立ちさらに南下。途中で「カフェテラス モーデン」に気づき、そういえばいつも前を通るだけで素通りしているから、今日はここにしよう、と入店。唯一の客であった。どうしようかと思ったが、その後ばらばらとお客さんが増えたのでほっとした。ここのお手洗いの壁が、懐かしいものギャラリーになっていて、ゴジラやオードリー・ヘップバーンや陽のあたる場所http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD7540/index.html
や、脈絡があるようなないようなポストカードギャラリーになっていて、それに見とれて段差を踏み外す。私の好きなものも多くて、うれしかったが危険だ。

※ホットドッグセットを運んできてくれたお兄さんに、お手洗いの壁、好きなものばかりで見とれて、踏み外しました、というと、勢いで便器にはまらなくてよかった、と笑う。古いものが好きやから、とのことだったが、私にとってはどれもまだ現行品なんだけど。さて、そのホットドッグというのが、炒り卵をはさんだもので、これは違うんじゃないかとも思ったが、ちょうど出かける前に「秘密のケンミンSHOW」の再放送で「福岡のホットドッグにはソーセージは入っていない」というのをやっていた。

※久留米周辺では、キムラヤ  http://www.kimuraya-group.co.jp
のホットドッグというのが基本になっていて、まずパンは横にスライス。辛子マヨネーズを塗った上にプレスハム、その上から辛子マヨネーズ和えのキャベツ、というもの。このホットドッグを考案したキムラヤ初代が、名前だけ聞いて本体を見たことがない時点で、想像力でこしらえたものだそうだ。。「ホット→暑い」「ドッグ→犬」・・・「犬が暑がっている!」→「ハアハア、舌が出ている状態だ!」と考え、パンの間から犬の舌がちょろっと出ている状態にしたらしい。それゆえ、プレスハムは、縁が赤い、昔ながらの着色料使用のものでなければならない。これをホットドッグと呼ぶのだから、モーデンのホットドッグもまあ許容範囲であろう。

※しかしまあ、モーデンのサラダのキャベツは切り方が雑で、私が切ったのかと思ったくらいだ。千切りキャベツにしようという意志がないのか、意志があったが下手だったのかは不明だが、とにかくフォークからぼろぼろ落ちて食べにくい。純喫茶というのは、世の中から取り残されて行かざるを得ないものだから、その中で残ろうと思ったら、基本に忠実、技術に自信、というようなものがないとダメになっちゃう気がする。トマトは堅すぎて食べられなかったし・・・。ああ残念。

※休憩を取って、さらに南下。天牛書店で古本に引っかかる。どれでも50円、100円コーナーでじっくり探し、ついつい中に入ってしまう。勝手に触れない高い本コーナーに四谷シモンのと金子國義のがあって、じーっと見つめていると、店員さんが往来して落ち着かず、あきらめて奥へ行く。時事通信社発行「週刊時事」1970年12月26日号は、表紙に檄を飛ばす三島由紀夫の姿が。袋に入っていて中身を確認できなかったが、思わず買ってしまった。

※帰宅後、中を開いてみると、特集「国士・三島由紀夫」には檄文が全文掲載されており、ところどころ赤線が引いてある。そこだけを抜き書きしてみると「命を捨てよう」「国体を守るのは軍隊」「日本の軍隊の建軍の本義とは、天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守ることにしか存在しないのである」「義のために共に死ぬ」・・・これらは傍線。波線が引いてあったのは「あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。」

※おそらく思想が右寄りの人が線を引いたのだと思うけれど、最後の引用部分に関しては、予言は当たっていたかも、という気もしないではない。どんなやり方があったのか、今では、いや私ごときには申し上げられないが、「自主性の回復」というものをやっておくべきだったのだろうなあ。

※あと二冊買って1000円ポッキリ、しかし荷物はポッコリ。大荷物でヨタヨタしながら南森町まで歩いて堺筋線で帰る。

※さて今日の着物。羽織が本日デビューであった。というより、あまりにも強烈な色で気後れしてお蔵入りしていて、なかなか日の目を見なかった。今日は思い切って、羽織以外を地味~に抑え、なんとか着用に至った。しかし思わず目を引くこの色、電車の中で向かいに座ったご婦人たちの「変なスイッチ」をいとも簡単に作動させ、始まる始まる「私の着物談義」。でもやっぱり中身は着付け教室ばなしと冠婚葬祭ばなし。これまで何度もスイッチを作動させてきたが、一度も「解いてみてビックリ」とか「ベンジンで色落ち」とかお手入れ系の話を聞いたことがないし、芯が重くて悲惨な帯、だとか、着用に伴う悲喜こもごも、みたいな話は一切出てこない。浅い。着物文化、なんて業界が謳ったところで、実際には浅いものしかない。だから、着物文化を残すべき!なんて鼻息荒く語っても、実際には「着物文化そのものが、そもそも存在しないのではないか」とすら思う。文化って、制作者や商売人の間にだけ存在するものではなくて、フツーにその辺歩いている人にも浸透しているものだとするならば、だが。

※着物に対する自主性の回復、これが今後の課題となるんじゃないだろうか。私が着る、私が手入れする、私が保管する、私が支払う、そういうものだと改めて認識することによって、誰かの押しつけの知識を鵜呑みにしたり、商品を唯々諾々と購入したり着たりはしなくなるだろう。スイッチの入るご婦人たちは、おそらく着付け学校と業界の傭兵、といってもいいのではないだろうか。お直しおばさんもその内にあって、今書きながら納得したが、地下組織でもあるのじゃないかと思うぐらい、各地ですかさず発生するのは、綿密な傭兵教育を施されていた人々が相当数、潜在的に存在するからなんだな。自覚のない傭兵は、今この瞬間にも暗躍している。
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それでも鯉は

【12月2日】  http://sanpokimono.sakura.ne.jp/2009_12_02p.html
 
読書会@鶴橋

きょうの着物:葡萄茶×黄緑×白の格子の錦紗お召。
きょうの帯:白紋織り地に変な色の鯉の染め古屋帯。わけあり8000円。
きょうの羽織:青×黄絞り漆糸縫い取り。
きょうの長襦袢:錦紗地牡丹の染め。
きょうの帯揚げ:淡オレンジ絞り。
きょうの帯締め:黄×青緑平組。
きょうの足袋:五色小水玉縞。
>きょうの下駄:当初は焼桐神戸下駄に■□鼻緒のはずが、
         事故があって家具塗り高右近台に杉浦非水風鼻緒に交換。

※お昼ご飯を簡略化しすぎて、読書会前に空腹を感じ、駅の改札の真ん前のパン屋でミネストローネとパン、アイスティーを飲んで、お腹がおさまって、アイスティーもおいしく、なんかくつろいでしまい、早めに家を出たのにまたもやぎりぎりで会場に滑り込み。まあ、出かけた直後に下駄の金具が落下して、すぐに交換に戻ったロスタイムを考慮すれば、よく間に合ったと考えてもいいか。

※本日の内容は、先月に引き続き、ますます「アンチ・オイディプス」の元ネタになったとおぼしきもので、二年前の日記(2007年11月10日)にもちょっと書いたが、人間というのは「あれであるかこれであるか」という選択でもって存在が決まっていく、あるいは存在の仕方が狭められていくところがあって、しかもそれは自分自身による選択ではない。生まれたあと命名された瞬間に、命名前の「生成りの自分」みたいなものは失われ損なわれてしまう。その後は「長男だから」「女の子なんだから」等々の制限によって、だんだん形作られていく。当人には選択の余地のないことだが、ラカン曰く、主体は存在のみがあって、その意味は他者によって付与されるという。ただ、その間に「無意味」あるいは「無意識」の部分が残されていて、そこに時々、ごく稀に「生成りの自分の残滓」が出現するような、それでいてすぐに消えてしまうようなことがあるのだという。・・・ということだと思う。

※なるほどなるほどとわかったような気になりながら読み進むと、また謎のような部分が出現。フランス語の一部だけがイタリック体になっていて、それも語の途中まで。なんじゃこりゃ、としばし悩むが、単なるダジャレであったことが判明。今で言うところの「オヤジギャグ」で、ちょっと寒い感じだ。こんなややこしいことを講義しながら、すっと笑えないようなダジャレを交えるのは勘弁してもらいたいと思う。

※終了後、儲け度外視の韓国料理屋さんに行く。もう看板をしまっていたのだが、ここのママさんがメンバーの一人のファンなので延長営業。その代わり、何が出てくるかはおまかせだ。でも、全部おいしくて、こっちが注文なんかするより確実だった。厨房の中でママさんがこぼす。つい先日、ネパール人の18人様団体客を受け入れたのだが、大皿や鍋をつつくという習慣がないらしくて、すべての料理を人数分にわけて出せと言う。チゲ鍋も同様。もうこりごり、と思っていたら、再度予約の電話があったそうで、思わず「予約でいっぱいです」と断ってしまったらしい。お国が違うといろいろ軋轢があるものだ。郷に入れば郷に従え、というけれど、幼い頃からの習慣はなかなか理屈だけでは変えられないものだ。

※さて、今日の帯。古着屋の新古品なのだが、垂れ先に小さな点汚れがあって、そのせいでお安くなっていた。しかも鯉なのになぜ青緑と黄色なのかわからない。まあ色が変でも「それでも鯉は鯉♪(松山千春の「恋」のメロディーでどうぞ)」と購入した。ああそういえば。最近あるお寺の金魚がごっそり盗まれて、近所の人が何匹か持ってきてくれて数十匹になったそうだ。盗まれた金魚はいったいどうなったんだろうか。

※実は我が家も悲しい出来事があった。住居の大規模修繕工事でベランダのものをすべて家の中か玄関先に出せというお達しで、金魚(2007年2月10日の日記参照→)「もう鯉なのかサイズに成長した)とメダカが玄関先に鎮座ましますことになった。宅配便の人は配達のついでに、とてもうれしそうにのぞき込んで、話が弾んだ。そんな矢先、金魚の死体が植え込みの中で見つかった、と管理人さんから報告があった。誰にでも触れられて覗き込めるところに置いてあると、喜んでくれる人と悪さをする人の両方が現れて、人を信じていいのか悪いのか、複雑な気分になる。悪さをするにしても、命のあるものを奪って、死に至らしめるというのは「悪さする」ですませるにはあまりに悪質。今回の工事は非常事態で、こういう場面で人の本質みたいなものが露見するのが、悲しいなあと感じた。

※余談だが、そんなわけで各家庭のベランダの植木類が開放廊下にいっせいに並べられた時期があって、金のなる木(http://www9.plala.or.jp/mosimosi/green/others/kane_naruki.htm)の保有率が異様に高いことが判明した。全体の7割くらいあったようだ。うちにはないので、それでか、と納得した。

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